PINFU

毎日書く訓練

ディオニソスの祭り(13)

2024/02/29
 とにかく書いてみる、書いてみると何かが出てくる、出てこないことがほとんどじゃないか? 書いてみないと出てこないってことばかりではないけれど、戸谷洋志『ハンス・ヨナスの哲学』を読んでいる、どっぷり浸かってみる、『残光』は読んでいるといろいろ出てくる、出てくるから日記にも書いてしまう、最近は書いていないってことは『残光』は読んでいないってことだ。
 なにもでてこない、とにかく読んでみる、読んでなにか、おこぼれをもらって、日記のネタにしようってことでもない、
 もういいから読もうぜ
 日記を書いている時間はない。
 でも書いてみる。
 うるう日、大谷翔平が結婚した。仕事中スマホでそれを見た。きょうは忙しかったのでだれもそのことを話題にしていなかった。暇だったらみんなで話していた。忙しかったのでしなかった。
 パッと思った。うらやましい、と思ったのかもしれない。彼はなにもかも持っているように見える。でも「結婚」をうらやましいと思うのをやめたい、というより、どうしてうらやましいと思うのか。そういう風に社会がデザインされているからなのか。みんな結婚したら、
「おめでとう」
 と言う。祝福されまくる。その祝福されまくってることがなんとなく、う~ん、となる。なんでしょう、まったく言語化できてない。言語化できない。そのうち言葉になるのかもしれない。わからない。それを目指しているわけでもない、言葉にしたいわけではない。言葉になるというより悟りたい。ああそうか、と悟りたい。それを言葉で説明できなくていい。自分が悟ればいい。悟ったことを人に説明できなくていい。悟ったことは人に説明できない。音楽は説明不可能なのに、それでもいいと思えているのに、言葉になるとそれを説明できないと言葉になっていないと感じてしまうのはなんなんだろう。ハヤシバラさんが、
小島信夫は言葉にしようとして結局言葉にできなかった人なんじゃないか」
 と言っていて、小説家とはそういうものだ、ではなく、小島信夫はそうだった。親にもいまだに文章を書いていることは隠している。隠しているってほどのことでもないけれど、実家にいたときはどうしても、俺は本当に一日中机に向かって何かを書いていたから、勝手に、
「あいつはなにか書いているんだな」
 と知っていた。ひとり暮らしをはじめれば、わたしが文章を書いている姿はだれも見せないから今も書いているのかわからない。一度、
「まだ小説書いているの?」
 と訊かれて、
「もう書いてない」
 と言った。
「なんでよ、書けばいいじゃん」
 と言われたけれど、
「もういいんだ」
 と言った。でもそのときも書いていた、今も書いている。隠しているつもりではなかったけれど、オープンするつもりもなかったし、自分が書いていることを伝えたい人は親でなかった。