PINFU

毎日書く訓練

万事快調(19)

2024/01/20
 小島信夫『残光』、

 ここでボクの眼はいよいよカスンできて紙に書いていることは分っているが、さっきから、書いている字が読めない。しばらくベッドに横になって眼を休めることにする。今ボクは、トークの会場にいるのか、トークは一月も二月も三月も前のことで、二、三日前にあのときのCDを届けてくれた。
「エーと、『寓話』というのは、トビキリ、スゴイ」
 といったあと、たしか「燕京大学部隊」のことをしゃべっていた。アレは「エンケイ大学」でなくて「エンキョウ大学」ということになっている。現在は、「北京大学」である。
 とにかくしばらくお待ち下さい。ちょっと一休みしますから。今は、全く見えない部屋も、世の中も全く見えない。「山崎さん、そこにいるのかい? ボクが倒れたら一一〇番をたのみます!」
小島信夫『残光』新潮社、pp.110-111)

 来週『残光』の話をすることになったので、今週でじっくり読まないといけない。じっくり読めばおのずと自分の問題が出てくる。これも引用しよう、山崎努『俳優のノート』だ、

せりふを丁寧に洗いながら読むことを心がけている。自分自身の問題として読むこと。そうすれば、所謂解釈などというものは自ら出てくるものだ。安易にでっちあげた解釈で全てをこじつけてしまわないこと。謎は謎として大切にすること。
(山﨑努『俳優のノート』文春文庫、p.47)

 夕方は巣鴨で古谷利裕連続講義第1弾「未だ十分に語られていないマティスピカソについて」。
 最後、ピアノ弾いている少年の絵、マティスはニつペアで絵を書くことが多かったらしくその絵もニつ同じモチーフを描いているが、登場人物が違う。一方はピアノを弾いている少年の横に、ピアノの先生なのか母親なのかわからないが大人の女性がいて、部屋の隅、というかピアノから少し離れたところに男性(これも父親なのかなんなのかわからない)が、本を読んでいるんだけど、同じモチーフを描いているもう一方の絵には女も男もいなくて、少年だけになる。しかも少年は一方では手元を見ているのに、もう一方は意味不明にこっちを凝視していて、しかも顔の右半分がデジタルノイズが入ったようになっている。男や女が描かれている方は、忠実に、というか現実にありそうな日常の一場面のように描かれているが、もう一方の少年の顔にデジタルノイズが入っている(もちろんマティスは「これデジタルノイズ」と思って入れたわけではないけれど)方はたしか部屋の半分、つまり絵の約半分が緑色に塗りつぶされている。それを古谷さんは、
「ほぼ完璧に近い絵」
 と言って、
「なんでこんな変な絵をペアにしたのか」
 と言った。男と女が描かれている、わりと現実っぽい絵の方は、古谷さんはあまりよく思っていないようだった。でもわたしはそっちの方もそんなに悪い絵には見えなかった。悪い絵ということではなく、完成度とか、レベルの違いだろう。でも学校で評価されるのは古谷さんが「良くない」と言った方かもしれない。
 このニつがどうしてペアになっているのかを今回考えてみたかったんですけど、今回はそこまでいきませんでした
 会場にはハヤシバラさんもいて、たしかお名前はハヤシバラさんだったと思う、ハヤシバラさんとは、小島信夫『小説作法』の読書会で初めてお目にかかって、
長嶋茂雄はバッティングについて語れないのと同じで、小島信夫も言葉にしようとしているけれど言葉にできていないんじゃないか」
 と言っていて、ハヤシバラさんは、
「あんまり小島信夫は読まないんですが……」
 と前置きしていたが、読んでいないからってこともあるのかもしれないし、そもそもそうゆう天性の持ち主ってこともあるのかもしれないけれど、その参加者の中で一番鋭いことを、素朴に言っていた人で、次に第一回保坂ゼミで、次に機械書房のクリスマス会で、そして今日四回目に会ったハヤシバラさんが声をかけてくれた。クリスマス会のときにわたしの日記本を買ってくれて、
「読んでますよ」
 と言ってくれた。
 もともと絵を描く人ですか? とハヤシバラさん。
 描かないんです。あんまりものすごく興味があるってわけでもなくて、
 じゃあ今日は保坂さんの影響で?
 そうですね。保坂さんが古谷さんの話をしてて、日記を読んで、それで来たって感じです。
 じゃあ、今日の話は結構難しいんじゃないですか?
 はっきりとは聞かなかったけれどハヤシバラさんはこの口ぶりから、絵についても多少は普段考えているような感じだった。
 いやそんなことないです。なんか芸術史って話じゃなくてその絵(ピカソマティス)を、古谷さんが見て、古谷さんがどう考えているかって話だからすごく面白いです。
 なるほどね
 どの絵だったか忘れたが、たしかマティスの絵だったと思う。「この絵をじっと見ていてナントカ……」って話をして、最近、東京都美術館で展覧会のあったマティスの話だったと思う、古谷さんはその絵をじっと見て、自分がどう考えたか、自分がどういう解釈をしているかという話を四時間(!)していた。芸術史的にどうとか、社会や後世にどういう影響を与えているかということは、ほとんど、まったく言わずに、自分の中に起こっていることを話していた。それが保坂和志の言う、
「小説はストーリーがいいとか筋がいいとかそういうことを表現するものではなくて、世界と自分が触れあってる感じを書くもので」
 と言っていたことを体験しているような話だった。まさに、
マティスピカソの話をしているけれど、同時に、自分について語っている気がします」
 そういうことを言っていた