PINFU

毎日書く訓練

ディオニソスの祭り(6)

2024/02/16
 小島信夫『残光』p.179〜188(もしかしたらもうちょっと先までかもしれないが)が、大事なところかもしれない。

せりふを丁寧に洗いながら読むことを心がけている。自分自身の問題として読むこと。そうすれば、所謂解釈などというものは自ら出てくるものだ。安易にでっちあげた解釈で全てをこじつけてしまわないこと。謎は謎として大切にすること。
(山﨑努『俳優のノート』文春文庫、p.47)

 もちろん自分の問題として大事なところ。
 もうすぐNさんから手紙が届く。届いたら始まる。届いてどれぐらいの期限でお返事したらいいのか、一ヶ月は長いと思う。もうすぐ、と書いたが、まだ半月後だ。月末に届く。
 小島信夫は「わたし」と書いているけれど、やっぱり小島信夫本人として書いているわけではない、それは当たり前なんだけど、でも読んでても、ここで書かれている「わたし」、小島信夫はあんまりひらがなには開かないから「私」、は誰のことを言っているのか、そもそも何の話をしてるのかも分からないからもちろん「私」も分からない。それでめんどくさいから「私」=小島信夫ということにしてしまうけれどそうではない。
 それは当たり前のことで、村上春樹の小説だからと言って「私」がでてきたら、「私」=村上春樹とは読まない。でも小島信夫では読んでしまう。それぐらいしかよすががないからか? でも逆に「私」の問題が大きくでてくる。
 山下澄人を一緒に読んでて、あっ、小島信夫はこういうことをやっていたのかもしれない、と思った。つまり【小説の登場人物】として実在する人間は出てきているけれど(保坂和志保坂和志として、改名もされずにそのまま出してる)、それはあくまでも
保坂和志が演じる【保坂和志】という役」
 であって、
リア王』で、
「山﨑努が演じる【リア王】という役」
 と同じ使い方(登場のさせ方)で、そういう書き方をしたい、と思う。なかなかできるものではないと思うけれど、だから保坂和志は自由だとは思うけれど、師匠には選ばない。師匠にするなら山下澄人だけど、でももちろん弟子入りはしない。勝手にそう思ってればいいけれど、いや、弟子入りするなら滝口悠生かもしれない。
 ここ(『残光』のp.179〜188)をNさんがどう読んだか知りたい。一応、ここに書いていることはNさんは知らないことになっている。もちろんNさんは読んでいるから知っているんだけど、まだ「往復書簡」という形ではやりとりしてないし、それを本にしたあとの本の読者も、わたしが一方的に、「往復書簡」が始まる前に自分の考えをまるで手紙を書いて送るみたいに書き殴っていることも知らない。いきなり「往復書簡」を読む。Nさんが、
ピンフくんが『ディオニソスの祭り』で書いてたことだけど……」
 と話を、してもいいし、しなくてもいい。とにかく、わたしは今こんなことを考えてますよ、と書き送っているだけで、それ以上にプレショーとして、自分の考えをまとめてる(吐き出してる)だけだ。
「往復書簡」という名前もちょっと古めかしい。新しい言葉を発見したい。