PINFU

毎日書く訓練

万事快調(25)

2024/01/27
 最初はゴダール映画史を読んで書き始めた小説だが、最近は『残光』を読んでいるのでその話が出てくる。保坂和志のイベントばっかり参加していてまたニ月の小説的思考塾の案内が来て、めちゃくちゃ保坂和志の顔ばかり見ている気がする。次回は、だからわからないけれどたぶん行く。
 Twitterに自分の古アパートが炎上している写真をアップしている、それを眺めていて、アパートの前に消防隊員が何人もいて、小さな写真の中にこんなに人が入れるの?というほど、消防隊員がいて、炎上している自分の部屋を見てどういう気持ちになるんだろう。
 気を付けろよ。男のタバコの不始末の火事がいちばんムカつくからな
 ここを読んで小説を以前一つ書いたが、それは推敲しすぎておもしろさがなくなった。それで今度は推敲しなくなったらそれはそれでいいのかわからない

 ぼくは浜仲の架空の手紙を元に『寓話』を書いているうちに、話したこともない登場人物まで、ぼくをおどろかすような、ふしぎなことを云い出すのにはおどろいた。
小島信夫『残光』新潮社、p.153)

 これだって本当なのかわからない。本当かどうかなんてどうでもいいじゃん。小説のストーリーとしてはどうでもいい。でも現実のわたしにはこの一言、二言にどれだけ振り回されることか! 小島信夫が推敲はしないと言えばそれを試す。かと思いきや、『小説の自由』に、
 初めて自作が文芸誌に載るのに、まったく推敲せずに出すだろうか。推敲したはずだ。
 それはそのとおりで、いくら小島信夫でも初めて文芸誌に載る(たしか「小銃」?)のに、というかあれは書いたら書きっぱなしの作品ではない。でも後期の小説だったら、小説だってわからない。小島信夫は信用できない。信用できないが、なんだろうな、普段使っている「あいつは信用できない」とは違う。とても信用しているだからこそ振り回される。
 浜仲だっているのかなんなのかわからない。その小説の中でモデルと言われている人物も、小島信夫の創作なのかもしれない。ちょっと考えればその可能性もまったく考えなかったわけではないけれど、さんざん『残光』に引用されている浜仲の手紙だって、もちろん全文本当に、つまり実在する手紙をそのまま小説に書き写しているとは思っていなかったけれど、でもだんだんわからなくなって、小島信夫はそのへんのことを考えている隙間が小説を読んでいてなくなる。「小説に夢中になっている」といえば易しいんだけど、「夢中」と言われるとそれはまた違う。「静かなる興奮」? それっぽいことを書き足しているけれど「興奮」と言われるとそれも違う。
「興奮」と言われると……って、お前が言うたんや!
 そう。自分で投げて自分で捕ってる。
 浜仲の手紙は、でも、六〇%くらいはそのつもりで、つまり小島信夫は本当にこの手紙をもらっていて、差出人の許可もなく勝手に小説に登場させている、と読んでいる。あそこに書かれていることは、ぜんぶ「本当」だと思っている。
 モデルになっている人が嫌な思いをしないように
 わたしの小説にも、モデルになっている人が何人も登場して、昔は偽名というか、役名をつけていたが、あとで読み返したときに誰のことを書いているのかわからなくなって、困ったのでイニシャルだったり、最近はそのまま名前も変えずに登場させているし、わたし自身も名前を明かしはじめたりしている。
 ちょっと危険だな、と最近思い当たることがあったので、自分なりに気をつけるように変えたけれど、書かれた人は読めば一発でわかる。そもそも名前も変えずにそのまま書いているわけだから、でもこれは今も昔も変わらず気をつけていることは、書いているその人が嫌な気持ちになったり、その人のネガティブなことを書かない。こんな事は当たり前なんだけど、基本的にをたしの小説に出てくる人はみんなわたしの好きな人なので、ネガティブなことは書かないが、とにかく悪く書いたり、嫌な思いをさせてやろうと書かない。べつにそんなことを小説使ってやりたいわけではない。
 でも嫌なところがあったら言ってください。小説の良いところはあとで書き直すことができることです