PINFU

毎日書く訓練

お彼岸

 二〇二四年三月二十三日(土)
 今日はおじいちゃんの月命日か
 違うよ、おヒガンだよ
 さっきは「ヒガン」の漢字がわかっていたのにいざ書いたらわからなくなってしまった。ガンは岸である。
 岸のむこう。岸のむこうだからこっちとあっちの間には川が流れている。大きく流れる緩やかな川だ。わたしはこっちの岸にいて、おじいちゃんおばあちゃんはあっちにいる。あっちにいるおじいちゃんおばあちゃんが見える。手を振るわけでもない。二人は並んで立っている。こちらから見て左側に祖母、右側に祖父。
 母方の熊本の実家には昭和天皇香淳皇后御真影と、上皇上皇后御真影がある。御真影にかぎらず新聞の写真でも必ず写真に写るときは、天皇は皇后の右側に立つ。それと同じかと思ったが祖父は祖母の左側に立っていた。
 熊本の実家には二間続きの広間があり、普段は襖で仕切られているが、わたしたちがお盆に帰り四日ほど滞在するときは取り払われている。
 手前の広間は四人家族の布団が川の字にならべられて寝起きし、奥の広間には先祖の仏壇がある。長押(なげし、と読むそうだ。調べて知った)の上に先祖の白黒の写真が飾られている。五人いる。白黒の男女が二人ずつとカラーの女性が一人、書きながら白黒の男女がそれぞれ祖父母の父母(わたしの曽祖父母)かと思って考えていたが、カラーで写っている女性がたしか祖母の母で、この白黒の人たちは誰なのかわからない。そもそも会ったこともない。
 場所が変わって東京の我が家のカウンターキッチンからリビングが見えるその棚というかシンクの正面に、母が、おそらく振袖を着ているので二十歳ごろの写真に、みんな正装をしているから結婚式かなにかのときに実家で撮った写真かもしれない。そこには若い祖父母と、振袖姿の母、母の兄のT、妹のMが写っていて、その中央にイスに腰掛けて、カラーの遺影が仏間に飾られている女性が写っている。わたしはこのあと夕方から、東京の自分の実家に帰った。両親は明日から静岡に旅行に行くらしいが、冷蔵庫の中に飯がたくさんあるから食べに来てくれないかということだった。
 この人はおばあちゃんのお母さん?
 そう、M子ばあちゃん
 後日戸籍を調べるとたしかにおばあちゃんの母のところに「O本M子」と書かれている。それを取り寄せるのに六日ほど時間がかかった。明治四十三年の生まれだった。
 となるとわからないのは、仏間に飾られているほかの白黒の写真の四人だった。戸籍には親きょうだい家族の名前はあるが、誰が誰なのかはわからない。わたしの祖父であるKは六男で、長男は二歳で死亡、三男は戦死している。祖母は長女でたしか三つ上に兄がいたが幼いうちに病気で亡くなり、二男もいなかったので祖父のKがムコ養子となった。
 岸のむこうに立っているのは熊本の祖父母ではない。仏壇のとなりに昭和天皇皇后、上皇上皇后御真影が立て掛けられている。幼いときに見ても今見ても、あっ天皇の写真だ、ぐらいにしか思わないが、昔の人は全然違う態度で御真影をながめていたんだろう。手を振ってみましょう。おじいちゃんおばあちゃんは手を振ってくれた。
 でも本当は振っちゃいけないのよ
 もう四年も三年もいれば向こうの生活のリズムというか、慣習が身に付いてくる。こちらのことは本来は見えないことになっているらしい。しかし見えている。見えているけれど見えないことになっている。
 一応看守のような人がいるらしい。看守というか門番だ。境界のところに立っている。もちろん神様にはすべてお見通しではあるが、多少手を振るぐらいは目をつむってくれるらしい。今日はいやに岸にたくさん人がいるなと思ったらおヒガンだった。まだ漢字は思い出せない。パラソルも立っている。
 おじいちゃんは漢字が得意だった。小学校では宿題が出る。宿題は毎日出て、今では考えられないがそれを毎日こなして提出する。生徒もやりたくない、先生もその丸付けをする時間をとられてほかの仕事ができなくなる、お互いにとってwin winなので宿題なんてやめてしまえばいいのに今も残っているのか? 学校現場からは小学校卒業以来離れているのでどうなっているのかわからない。とにかく小学校に通っているときは毎日宿題があった。
「おテツダイ」が書けなかった。カタカナで書くと余計に分かりにくくなるが「お手伝い」だ。手、はわかったけれど、伝い、がわからなかった。両親共働きだったので学校が終わって親が帰ってくるまでは近所だった祖父母の家に預けられた。「預けられた」なんて書くと余所余所しいけど、おばあちゃんに
「おかえり」
 と言われるとなんか違う感じがした。そんなことは初めて書いた。
 おじいちゃんは漢字が得意でそれを母も知っていた。わからない漢字があればおじいちゃんに聞けばOKだった。算数、社会は聞かなかった。理科も聞かなかった。思えば全教科で宿題が出された。そんなにベンキョーさせてどうするのか。松山千春が「歌が上手くなるコツは、小さいころからデッカイ声で歌うこと。今の人は上手く歌おうとして声を小さく歌ったりするんだけどね。俺が小さいときは広いしさ、裏の山とかでデッカイ声で歌ってたんだよ。それが今思えば大事だったと思うね。」
 イスにじっと座らされて何時間もベンキョーさせられるより、小学校のうちは外へ出て(外へ出して)体を使って遊ばせたほうがいいと思うが、そうさせていない。
 祖父母の家で宿題をやっていた。
 コウちゃん宿題は?
 今日はない
 なんて嘘をついたことも一度二度ではない。何度もある。おばあちゃんも嘘だとわかっていただろうが、孫がそう言うからとなにも言わずに飲み込んでくれていた。
 おじいちゃん、おてつだいってどう書くの?
 おじいちゃんは新聞に挟まっているパチンコ屋かなにか(だいたい多くは、パチンコ屋のチラシのウラは白紙で、裏紙に使っていた)のチラシの裏の右上に、
「お手使い」
 と書いた。
 見覚えないな、と思った。でも漢字の得意のおじいちゃんが書いたので間違いはないと思い、ありがとう、と言ってそのまま書いた。たしか作文だった。ちゃんと宿題をやったか母親に見せたとき、
 これなんて書いてあるの?
 おてつだい
 字がちがくない?
 と母はまた裏紙に「手伝い」と書いた。
 でもおじいちゃんがこうだって
 おじいちゃんが? おじいちゃん「お手伝い」も書けないの?
 なんでこのエピソードを覚えているのかわからない。たぶん理由はない。手を使うんだから手使い、でも間違っていない気もする。理由はないけどなんとなく覚えている。そこに理由を後づけすることもできるけれど、後づけだ。
 岸のむこうには死者がたくさんいる。死者/生者、と線引きをするのも間違っているのかもしれない。調べるとお彼岸は、あの世とこの世がもっとも近づく期間とされているらしい。漢字も調べたのでわかった。「お彼岸」。彼方の岸、もしくは岸の彼方、ということだ。

(おわり)