PINFU

毎日書く訓練

ディオニソスの祭り(11)

2024/02/27
 たぶんコーヒーの粉の量が合っていないのと、お湯の温度が高すぎるんだと思う。インスタントコーヒーがおいしくない。おばあちゃんの三回忌のとき、実家に行って、
「コーヒーでも飲む?」
 母もコーヒーを飲む。その影響なのか、町田康も影響を語るときに、それだけに影響されたわけではなくて、いろいろなものに本当は影響されている。たとえば、……そっちの話に行ってしまうと実家のコーヒー、もっというとKのコーヒーの話が出来ないのでそっちにはいかない。
 友だちのKが半年? ちょっと前にコーヒー豆の販売を始めた。自分で焙煎して、今はネットでの販売だけだがゆくゆくは自分のお店を持つ。それが夢、というわけではなく、もう場所も決まっていて、調理師免許も取って、だから保坂和志も言っていることだけど店を出すことは思っている以上にカンタンというか、カンタンなんて言うのは失礼だけど、カンタンではないけれど、お店を出す以上に店を長くつづけていく方がもっともっと大変で、保坂の言う、
「デビューすることなんか簡単なことで、そこで引っかかっているようでは小説家として長く書いていけない」
「そんなことに一喜一憂してはいけない」
「作家の中にもTwitterとかに、芥川賞のノミネートの連絡が来て震えた、とか書いてるやついるけど、そんなの大したことじゃないから。というか、取ったところで大したことじゃないから。だって知ってる? 芥川賞獲った作家の名前。毎年二人とか出してるのにほとんど知らない。村上春樹芥川賞獲ってないけどこんだけ話題になっているわけで」
 そうは言いつつコーヒーは今日もおいしい。
 この前Kには大変なことをしてしまって、それ以来連絡は取っていない。
 町田康(「康」を打とうと「コウ」と入力しても「康」に変換されないので、「ヤス」と書いている)は、作家のインタビューとかで「どの作家に影響されましたか?」と聞かれて「だれだれですね」「ほかには?」「ほかには、だれだれとかだれだれとか」「そうですか」となって、記事では「だれだれとだれだれとだれだれに影響受けたようだ」と書かれている。それを見て、「そうか、だれだれに影響を受けているのか」とフィクションが作られていく。

 今の意味、わかりますよね? つまり、これに影響を受けたというフィクションを自分で信じて、影響を受けたことになっているという、そのフィクションに自分が影響を受けているんです。だから、そのフィクションの作り方には、わりと意味があるかなという気がするので、今回はそのフィクションについてお話ししたいと思います。
(町田康『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』NHK出版新書、p.128)

 本当はそれだけに影響を受けているわけではない。前にも思ったことだけど、インプットしようとして、そのためにはたくさん本読まなきゃとか、映画観なきゃとか、そもそもインプットしよう=読書する、映画観るって発想が貧困なんだけど、そういうふうに思っていたけれど、普通に生きているだけでインプットはたくさんある。それは現代が情報社会だからとかってことではなく、普通に生きている、街を歩いているだけでたくさんのものが自分に入ってくる。だからわざわざ「インプットしよう」と肩に力入れて生活しなくてもいいんじゃないか。
 今この文章を書きながら、なんというか、日記はもちろんその日その日、毎日が締め切りだからいちいち質を求めていられない、とにかく書き飛ばさないと、仕事もあるし、ご飯も食べなきゃいけないし、風呂にも入るし、センズリもこかなきゃいけないとか、ほかにやるべきことはたくさんあって、その中の日記は一つで、日記だけ特別扱いして良質なものを、とか、ほかのことが疎かになるほど時間をかけてはいられないからどんどん書き飛ばすんだけど、もうちょっと、なんというか、練ったもの、もうすこし文章を練りたい、とは思った。つまり小説を完成させたいってことなのかもしれないけれど、わからないけど、もうちょっと、それこそ、
「おもしろいんだけど、この話もっと読みたいのにな、ってことがある」
 とNさんが言っていた、それの自家発電版、もうちょっとこの話掘り下げたいのにな。