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毎日書く訓練

万事快調(27)

2024/01/31
 ヨコイの結婚式で会ったOさんが、ヨコイの同僚だから大阪にいるんだろうけど、いまはディズニーランド、東京にいるらしいことをインスタのストーリーで見ていて、わたしも十一月に大阪に行って、まだダウンを着ていくほどではないと思って持って行かなかったら死ぬほど寒くて、レストランも入るのに並ばないといけない、場所によっては入るために事前に予約だなんだとスマホでやらないといけない、ディズニーランドもそんな感じになってて、前に家族で行ったとき(美女と野獣、このタイトルもどーかと思うようになってきたのは時代の移り変わりで、でも、
 本当に考えなきゃいけないことがポリコレに視線を取られて、本当に考えなきゃいけないことから目を背けさせられている感じがするんだよね
 保坂和志が言った。美女と野獣のタイトルがどうこうなんて重要ではなくて、ほんとに考えなきゃいけないことはほかにあるのかもしれない。ちがう。ポリコレの話のために( )をはじめたのではなくて、その美女と野獣のアトラクションに乗ったときの話はタイギゴの二十七回に書いた)、妹がスマホを駆使して、……いろいろやっていた。もう「いろいろ」としか言えないほど、いろいろやっていた。それで、昔は、また昔話をしてもしょうがないんだけど、昔は、ファストパスを取るために、やってはいけないけれどゲートから走って行って、その、パークに入る前から地図(昔は紙の地図が配布されてた。トゥデイという名前だった)を広げて、
 なに乗りたい?
 これ乗りたい
 じゃあこのルートで走って行こう
 と家族会議を行う。
 黒柳徹子永六輔の葬儀の弔辞で、
「私と、永さんと、渥美清さんで中華飯店にあるとき行って、エビチリを頼んで、私がエビの数をかぞえて、『一人三つずつ!」って言ったときに渥美さんが、
『そんなふうに細かくかぞえなくてもいいように僕はもっと稼げるようになるよ』と言ったら永さんが、
『なに言ってるんだ。こうやって、一人三つ!とかって言ってるときが楽しいんじゃないか。僕たちがおじいさんになって、ご飯が食べられなくなって、ご馳走が目の前にたくさん並んでいても食べられない、そっちの方がさみしいじゃないか』とおっしゃって、まだ若いときでしたけど、英 永さんはそんなときから大往生のようなことをおしゃる方でした」
 もう今となってはパークに入る前に家族会議は行われない。
 妹がいてよかった
 と両親は口々に言っていて、
 妹がいなきゃなんにもできねぇもんな
 これは父の言った言葉で、もちろんわたしたち家族は家族を属性で呼んだりしないから、妹のことは名前で呼ぶけれど、昔は父がガラケーでアラームをセットして、次ファストパスが取れる時間になったらすかさず次の乗りたいアトラクションのファストパスを取りに行った。そんな時代をキラキラして感じたりもするが、今は今で、新しい関係になったのだ。当たり前だが皆成長し、デバイスも環境も変わり、
 なんとか毛も生え大人になりました
 ってことだ。
 野本さんに、というか「野本さん」というのは偽名なのだ。だから「野本さん」というのは架空の存在で、……
 こういうことを書くと読者はどういう心境になるんだろう。『残光』でも、浜仲という人はいる(実在する)んだ、と思って読んでいたら「架空の」、それは浜仲という人物が「架空」と書いたわけではなくて、さんざん浜仲の手紙を引用したあげくに、
「ぼくは浜仲の架空の手紙を元に『寓話』を書いているうちに、」
 と言い出して、困惑というか、もちろんぜんぶ、ほんとにそのまま、丸々引用してるとは思ってはいなかったけれど、でも、
「ぼくは浜仲の架空の手紙を元に『寓話』を書いているうちに、」
 と改めて言われなかったら、たしかに100実在する手紙として読んでいた。
 こんなことをしてるから野本さんのなにを書こうとしていたのかわからなくなる。いずれ思い出すから書く。
 インスタのストーリーでOさんがディズニーシー(きのうはランドで、今日はシー、らしい)の写真、海辺にかもめがたくさん浮かんでいる写真、寒そうだなと思う。もちろんOさんはダウンジャケットを着ている。
 寒さはほんとうに、わたしから考える気を奪うというか、レストランに入りたいっていうのも、入りたい気持ちは山々なんだけど、そのためになにをしなきゃいけないのか、調べればいいけれど、その調べる気力を奪うから、USJではずっと寒空の中を歩き回っていて、一緒に行くはずだった北原はコロナになってしまったからわたし一人で、百二十分とかのアトラクションに並ぶ気にはなれず、それでもマリオカートのやつは並んで乗ったけど、それは新しくできたからで、覚えているのはマリオカートと、最近クローズしたスパイダーマンと、シングルライダーであっという間に乗れたジョーズだった。ジョーズはライフルとタイミングがずれていた。でもそんなことはどうでもよかった。わたしは野本さんについて書こうとしていたなにかを思い出さないといけなかった。
 野本さんに言おうとしていたことはいつまで経っても思い出せない、仕事をしているあいだに、シャワーを浴びているあいだに、ご飯を食べてうつらうつらしているあいだに、そういうときに、思い出すかもしれないと思ったけれど思い出せなかった。
 A4の紙に書くと話が紙一枚にまとまっていっちゃうなら紙に書くのをやめればいいんじゃないですか?
 野本さんはこんな高圧的な言い方ではなかった、
 いや、
 と反論したわたしの方が高圧的? だった。
 どちらかと言えば、って話だ。
 今日はそのまま書いてみよう、と思った。でもなにを書こうとしていたのか忘れた。
 手前味噌ですが、ぼくが保坂和志山下澄人YouTubeにあがっている対談動画の三つのうちに二つを文字起こししてアップしてるんですけど
 読みましたよ、それ。聞いたし
 あれで、二つ目の方なんですけど、山下澄人が『砂漠ダンス』って小説の朗読をしてるんですね
 はい
 一部分ですけど。それで、ぼくは『砂漠ダンス』はもってないから聞こえたまんまに書いていて、一言一句は間違っているかもしれないんですけど、でも一生懸命聞いて書いたんです
 はい
 それで、それはいいんだけど、それで『砂漠ダンス』なんですけど、あれがヤバくて、あの小説ヤバくて、そもそも保坂和志山下澄人は「山下はさ、一人称の使い方まちがってるよね」って言ってるんですけど、山下澄人も「保坂さんにはそう言われるんだけど、自分では何が間違っているのかわからない」って言ってて、ぼくもわかんなくて、でもその『砂漠ダンス』を文字起こししたり、そのために何度も何度も聞いているうちにだんだんその意味がわかってきた、というか、でも山下澄人は一人称の使い方まちがってないと思うんですよ
 へぇ~
 野本さんの発言が少ないがこれがわたしの反省である。
 むしろそっちの方が正しいような気がしてきて。つまり、すごく平たく言うと、「わたし」って名前の主人公を登場させているように書くんですけど、でもそれが正しい「わたし(一人称)」の書き方で、たぶん山下澄人はもう一段階違うレベルで一人称の使い方が間違っているんだと思います。今書きながら、演劇やってた友人が同じようなことを言っていて、演劇やる人って自分で演じながら「わたし」を俯瞰で見ているような感じがあって、でもそれだとほかの演劇人と同じで、でも山下澄人はほかの演劇人とは違うように感じるから、だからもう一段階違うところでやっぱり一人称の使い方が間違っているんだと思います
 山下さん会いたいですね
 会いたいですね
 あれはどうなんですか、保坂ゼミ
 普通に保坂さんの話を聞くだけだったら小説的思考塾で十分ですけど、いろいろ突っ込んで聞くなら七千円でも安いと思います、でも猫かぶっちゃうというか
 ですよね、わかります
 それが、保坂和志には猫かぶれるんですけど、山下澄人には無理なので、だから会いたいんです

書こうとしたのに書けないというのと書かなかったから書けていないのは違う。わたしは書けなかったんじゃない。書かなかったのだ。ときが来ればやる、ときは来る、来るのだときは、今じゃないだけだ。ときが来れば慌ててやる。だから結局いつも雑なんだといわれても痛くも痒くもない。そんなものは褒め言葉でしかない。仮に劇が出来なくてもかまわない。毎日舞台で謝ってやる。そして何で謝らなきゃいけねぇんだといってやる。書くよりおもしろい劇になる。怯えてやるなんてことはしない。湯水のように時間は使うのだ。
山下澄人「FICTION 07 助けになる習慣」『FICTION』新潮社、p.155)

 抜き書きしてみて、ここには黒いボールペンでしるしをつけていた。野本さんも『残光』にはしるしをつけていたが、わたしのように直接書き込まないで、細い、ビニールのふせんを貼っていた。ピンク色やオレンジだった。読み方の違いというか、小説の受け取り方の違いもそうだけど、直接書き込んじゃうのと、ふせんを貼って書き込みはしない読み方の違いもおもしろい。わたしはここにボールペンでしるしをつけたときは「仮に劇が出来なくてもかまわない。毎日舞台で謝ってやる。そして何で謝らなきゃいけねぇんだといってやる。書くよりおもしろい劇になる。」が中心だったが、いま抜き書きしてみると、「怯えてやるなんてことはしない。」ここが一番重要だった。