PINFU

毎日書く訓練

ディオニソスの祭り(4)

2024/02/11
「なりゆき街道旅」でワンプレートにいろんな産地のウニがひと口ずつ並んでいるのを芸能人五人ぐらいが食べている。たしか産地によってウニの色が違う。それは視覚的に見ればわかる違いで、わたしたちはテレビに写っているものは食べられないんだけど、それは産地の違いではなく個体差なんじゃないか
 ……と考えて書きはじめたが、でもたしかに人間も、生まれた所で肌の色、目の色、それは写真で見ればわかる違いだけど、会えば体臭が違う、言葉も違う、言葉はちょっと文明寄りすぎてるかも、もっと産地の違い、それぐらいしかわたしには具体的な違いが出てこない。
 学ばなければ
 この前浮気されている女の子と話をしていた、まだほんとうに相手が浮気してるかはわからない、でも前科があるし信じられない。

 昏々と眠り続けるふじの傍らで、恒太郎は沈黙のままである。謝ることもしなければ、釈明もしない。ふじに唯一語りかけた言葉は、「母さん、フラれたよ。フラれて帰ってきたんだ。ハハ」である。これは友子に関係を絶たれたという報告であり、相手に逃げられた無様な自分を嘲笑している。この台詞は、呼びかけの言葉〈母さん〉からわかるように、ふじへの甘えから発せられている。妻なら〈フラれた〉男を優しく慰めてくれると思ったのである。しかし許してくれるであろうふじは、彼岸へ旅立とうとしている。やがて彼の口元から笑いが消え、うめくような嗚咽がもれ始めた。恒太郎の浮気は帰る場所があるからこそ可能なものであった。待ち続けてくれる人を失った今、彼の浮ついた気持ちは一気に消し飛んでしまい、底知れぬ孤独が彼を襲ったのである。
(高橋行徳『向田邦子、性を問う——『阿修羅のごとく』を読む』いそっぷ社、pp.102-103)

 浮気って男がするもんだよね
 と言われ
 いや、俺はね、そこは疑っているよ
 ああ女の人も同じぐらいするってこと?
 するのもそうだけど、表に出てくるのが男の浮気しかないから浮気=男のものってイメージだけど、女の人も表に出てこないだけでやってると思う
 昨日図書館に行って本を借りてきた。しばらく蔵書整理に入るから二週間ほど休館になってしまうらしい、いいタイミングだった。高橋行徳『向田邦子、性を問う——『阿修羅のごとく』を読む』を借りてくる。なんで急にこれを借りてきたのかわからない、自分なりに浮気を考えたくなったのかもしれない。

 まず向田邦子が「日本のテレビにはホームドラマが多いが、ベッドシーンとかセックスシーンがつねにそこから抜け落ちている。ホームドラマという以上は、夫婦や家族をテーマにしている。セックスを抜きにして、ホームドラマは成り立たないんじゃないのかしら」と切り出した。和田勉はその頃テレビで放映された小津映画を思い浮かべて、「小津安二郎はセックスを描かなかったでしょう」と反論した。それに対し向田は、「そこにもセックスはちゃんとある」、「冠婚葬祭の基本はセックスだ」と明言した。和田はこの大胆な発言に驚きながら、「確かに、セックスがなければ冠婚も葬祭もない」と思い、彼女の意見を認めざるをえなかった。
 向田邦子はセックスについて、次のような彼女独自の考えを持っていた。
 一組の男女がコップいっぱいの水を分け合って飲むこともセックスだし、蜘蛛が口から糸を吐き出して自分の巣を作っていく、あれもセックスなのよね。
 向田はセックスを性欲に限るのではなく、もっと広義の意味で捉えている。男と女が互いを助け慈しみ合いながら生きること、端的に言えば、生への意欲と考えていたようである。
 二人は大筋で、向田流のセックスを柱に据えたホームドラマを創ることで意見が一致した。
(同前、p.16)

 Nさんは「タートル・トーク」で結婚式の話、「合掌」で葬式の話を書いていてわたしは勝手に「冠婚葬祭シリーズ」と呼んでいる。本人には伝えていない。わたしも一度本気で自分のセックスについて考えてみたい。もちろん小説の形で、自分の体験談を赤裸々に書くわけではない、でもある意味赤裸々に書かなければ意味がないんだけど、たしかに
「セックスがなければ冠婚も葬祭もない」
 っていうのはすばらしい。全部セックスやん。
 ……ゆりやんレトリィバァみたくなったけど、
「もうキンタマやん!」
 でも向田邦子の書くもの、ドラマもどれも、セックスの匂いがプンプンにしていて、だから太田光の、
「あんな不道徳なものを、しかも不道徳だと悟られずにゴールデンタイムで、茶の間のど真ん中でやっていたことがすごい」
「あれ(阿修羅のごとく)を家族みんなで観て、世のお父さんお母さんはビクビクしていたと思いますよ」
阿修羅のごとく』なんかもう観てて、
 さっさとベッドシーンを流してくれ!
 と思う。それはもう「さっさと介錯してくれ」って言うような感じに、そっちのほうがまだマシというか、見せないけどその裏側にセックスを強烈に感じさせるから、あんなものを自分の妻や子どもと一緒に見ていられない。
 でも普段セックスって隠して生きているじゃん
 って思う。職場で子供ができたって報告してお祝いする感じ。
 オザワ・セイジが亡くなっていろんな話がツイッターに出ている。
バーンスタインはその瞬間、本能的にバーン!と行ってしまうが、カラヤンはそういうことはしない」
カラヤンはもう演奏する前に頭の中に完成形がありますもんね」
「そうなんです」
 村上春樹との対談から引っ張ってきているらしい。わたしはそれを買って持っていたような気もするけれどたぶん買っていない。A先生がコロナが始まって「家にいろ」と言われていたときにツイッターでおすすめの本にその対談の本を挙げていた。たしか新潮文庫だったと思う。
 そんなことを考えていたら音楽は面白いなぁ、と思った。バーンスタインの指揮するマーラー交響曲二番「復活」のさいごなんて素晴らしい。ためしにカラヤンも検索してみたがYouTubeにはなかった。
 本番にむけて準備をしていくけれど本番はその一瞬しかない。その一瞬にむけて何百時間と練習していく。わたしは高校時代吹奏楽をやっていたけれど、十月末の本番に向けて、コンクールの曲が発売?されるのはたしか二月でらそこから練習するが、わたしが通っていた学校は定期演奏会が終わってから本格的にコンクールに向けての日々になるので、二月からかぞえれば九ヶ月間だが、それでも定期演奏会後でも約六ヶ月間同じ曲を練習しつづける。
 飽きないんですか?
 とわたしが言ってくる。
 わたしは勘違いしていたがら今までわたしと言っていたのが「わたし」で、「わたし」と言っていたのがわたしだった。つまり何かしようとして止めてくるのがわたしで、
 止めんなや!
 と言ってくるのが「わたし」だった。今まで反対で書いていた。

文學界の今月号にラボのことを少し書きました。【いわゆる「わたし」を排除して、本来のわたし、身体を伴い、あらゆる感覚を総動員した、勘や気配や顔色に瞬時に反応する「動物」】
山下澄人、@FICTION96、Twitter、2024/02/11)

 以前、絵を描いている人はどんどん上手くなっているが、自分は四年間も文章を書いているけれどうまくなっているのかわからない、と書いたけれど、それは文章を書いているのではなく、自分の中にあるものを書いている証しのような気がする。だから文章でなくてもいいし、文章が上手いか下手かを書いているわけではない。
 それでさっきの話に戻ってくる。戻ってないかもしれない。音楽はとにかく一瞬で終わる。本番に向けて何百時間かけていたとしても音楽は一瞬で終わる。それにくらべて文章は、書き直しができる、推敲はできる、書き出さずにずっと待っていることができる、しかし音楽はそうはいかない。始まったら終わりまで行くしかない。もちろんすでに作曲されている曲を演奏するのと、これから小説を書いていくのは違うかもしれないけれど、バーンスタインのようにドカン!と書いてしまうだけど、そこで山崎努で、
「そのとき湧き上がってくるものも大事なんだけど、それだけだと物語はキャラクターの居場所だから、そっちに行き過ぎてしまうとキャラクターの居場所がなくなっちゃう」
 俺の小説には居場所がないのかもしれない笑 だからこそじっくり見ようってことなんだけど。