2024/02/03
Nさん(これもなぜか三日前からNさんとわざと書いている。なんでだかわからない。「わたし」がそうさせているとも言えるけれど元ネタはあって、『残光』で「筆者」が、「Oさんと書くと大庭みな子のことだと読者は思うかもしれませんが、大庭さんのことではありません」と言うけれど、わたしは大庭みな子だと思って読んでいて、その後に続くシーン、「筆者」(これだって小島信夫じゃないのか?)とOさんが「筆者」の家で話をしている。庭には洗濯物を干している妻がいて、
「奥さんはこちらは来ませんか?」
「こないですよ」
「じゃあお話ししてしまいますけどね。奥さんのいるところではできない話ですけど」
となにか話している。ずいぶん長いあいだ「筆者」とOさんは紙幅を使って話をしていたはずなのに、何の話をしていたのかは忘れた。でもこそこそ話しているイヤラシイ感じはプンプンにあって、だからといって「筆者」とOさんがそういう関係だったとは思わない。
「昼間の夫がいない家に女に呼ばれてビールを飲んでいるのになぜセックスをしないんだ」
とHの小説に対して批判した小説家? 批評家がいたらしいけれど、まぁそいつはその程度で、
ミュージシャンのOのウェブ対談みたいなものをYouTubeで観た。今の時代は観客の反応が大きく響く。それはSNSのことを言っているんだけど、
昔はそんなことなくて、売れなきゃ売れないだけだし、ライブに人が来なくなるだけだからあんまり関係なかったんだよね
わたし(この小説を書いている「筆者」ではなく「わたし」)の本はある本屋さんに置かれている。店の真ん中に平積みで置いて欲しいな、と思うが、それは平積みされていないだけで、売れて欲しいが売れなきゃ売れないし、物書きにライブはないがライブに人が来なくなるだけの話だ。そんなことより売れるために、売ってもらうためにゴマをすったりするなんて言語道断で、というか「わたし」は「筆者」が若いくせになんとなく落ち着いているのが嫌になる。だれかれ構わずケンカをふっかけろとは思わないが、もっと中指を立ててもいいんじゃね?
ごみ収集とかだるいし疲れるので、専業とか関係なく、できれば仕事は辞めたいですよ。腰もまじで限界だし。でも、今までは作品を受け取るだけの立場だったので、こいつ金に目がくらんでクソみてえな作品ばっか出しやがって、とか普通に思ってたわけで。
いざ自分が文章を書くことでお金をもらえるようになってくると、ごみ収集の仕事に対する考え方も変わってきました。ほかに収入があれば、作家として魂を売らずに済むし、体さえ壊さなければ肉体労働は朝から体を動かして、健康的で、ストレスも発散できて、夕方前には終わって、わりと給料もよくて、街もきれいになって、もう言うことなくないですか?
――立派な仕事ですよ。
やるからには、誇りを持ってます。でも住民からクレームも多いんですよね。口の利き方が悪いとかって。でも間違ったキレ方は絶対してないんで。ごみを出す時間が遅かったり、分別ができてないやつに注意してるだけ。ごみ収集って、そもそも別に街を掃除する仕事じゃなくて、ルール通りに出されたごみを回収することが仕事なので。何でもかんでも持っていくわけじゃない。しかも、S区民はおごってるんですよ。ごみ収集もそうだし、生活インフラを見えないものとして軽く扱ってくる。だからうちは無理やり視界に飛び込んでやる。ルールを破るやつには、こっちもルール外のやり方で接するだけ。タメ口で言ってくるやつには、タメ口で返します。みんなすぐクビ切られますけど。
――出されたごみを見ると、地域や住民の特性がわかりますよね。
S区のごみを見てると、捨てるために買ってんのかよ、って思いますね。食わないならメシも作るなよ。一緒に組んでるドライバーは長くごみ収集の仕事をやっていて、いろんな地域を見てきた人なんですけど、所得が低くて治安も悪いと言われている下町のほうが、ごみはちゃんと出すって言ってました。クレームとかもこないって。それに比べて、S区はクレームのパレードですよ。見た目きれいでプライド高い。てめえのゴミ拾ってんのに鼻つまむな。なめやがって。
(「パワハラ、モラハラ、ブラック、搾取…マジ意味わかんない。小説はあんまり儲からないかもしれないけど一人でやってるから自分でケツ拭けないことはしないです」ごみ清掃員からすばる文学賞を受賞した大田ステファニー歓人《前編》、https://shueisha.online/entertainment/191496)
中指じゃなくても、言い換えるなら「飄々」。
話はすこし違うかもしれないが、職場の管理職がハラスメントの研修を受けて、配布された資料を配ってくれた。それはすごくいいことなんだけど、「多様性」と言っていて、プリキュアに初めてレギュラーの男の子のキャラクターを入れて、この人はプロデューサーなのか役職はわからない(名前もわからない)が、
「多様性というのは既成概念を持った大人の発想で、子どもにとって多様か、どうかではない、全てが初めてですから。
選択肢が広いんだよということを我々(大人)が提示してあげなきゃいけない」
こっちのほうがいい。
「多様性」じゃないんだよって。世界はすでに多様なんだよって。そんな「多様性」なんて言葉が生まれる前からすでに世界は多様なんだよって。
それこそNさんにHさんが言っていたことを伝えたときもそうだけど、
「いかに悪をしたかってことが題材になっている小説はたくさんあるけれど、世界にはもっと大きい悪があるわけじゃん。それこそガザとか麻生とかさ。そういう悪のことを書くんじゃなくて、いかに善をなすか、ってことを考えるべきなんだよね」
とHさんが言っていたとNさんに言ったら、大きくうなずいていた。
今日(推敲したときにはこの「今日」は消す)の冒頭で書こうとしていたことは、
手書きで一枚って決めずに、決めるとしたら一枚ちょっとって決めて、ノルマ決めずに書くのはどうですか?
と言われて、もしかしたら一枚の中に収まるように、本当はもっといけたのに、いかないように抑制しちゃってんじゃないかってことで、
止めんなや!
本当はもっといけんのに、いこうとするわたしを止めようとする、それが「わたし」やねん。止めんなや! って……思うけど、でもそうやね。周りにいる他の人には見えてるのに、本人には見えてへんねん。
自分なりに考えると、でも今はパソコンで書く人が多いのかもしれへんけど、昔はみんな原稿用紙に書いてたわけで、でも自分にリミッターかけずに書いてた小説家がいたわけで、それが俺らが尊敬する小島信夫だったりするわけで、だから抑制してるのはA4一枚とか、分量とかじゃないんじゃないか、
本当の問題はもっと別のところにあるのに、ポリコレに注目させて炎上させることで本当の問題から目を背けさせられているような感じがするんだよね
そんな感じ。
いけるとこってどこ?
どこまでいったらいったことになるん?
そんなんええから書けや
止めんなや!
言おうと思えば言い訳なんかいくらでも言える
ごめん、そういうのいいから、もうここアマゾンだから。そういうこと言ってっと食われっから
これを読んでいるのはNさんだけと思っていたらMさんも読んでいた(日記で取り上げてくれた。こんな手紙みたいなことを小説の場で言うのもヘンですがありがとうございます。「日記じゃなくて小説か」と書いていたけれど、ボクとしてはどっちでもよくて、ただこれがそのうち書き終わって、すこし時間をあけて推敲しようと読み返したときには小説になっていると思います)いずれ「今日」も「わたし」もない文章で、初稿で小説を書きたいとツイッターに書きましたがそういうことです。