PINFU

毎日書く訓練

ディオニソスの祭り(3)

2024/02/10
 わたしは「わたし」という装置を観察してみたい。これは山下澄人の受け売りではあるけれど、わたしの中には「わたし」という装置があってら本当は「 」もつけずにわたしはわたしを観察してみたい。
 外したいなら外せばいいじゃん
 これもわたしが言っているのか、「わたし」が言っているのかわからない。きのう帰ってきて、本棚にある坂口恭平『現実脱出論』が急に目に入った。本棚は二つある。一つはテレビの上に組まれた本棚で、これは高いところにあるから毎日目につく。もう一つはホームセンターでコンクリートのブロックを買ってきて1メートルほど離して置き、その上に1.2メートルの木の板を置いて、またさらに上にコンクリートのブロック、その上に木の板と、三段組の手作りの本棚があるが、それは私わたしがいつも座ったり寝たりしているところからは、畳まずに干したあとそのまま山と積まれている服の影に隠れて見えなくなっている。『現実脱出論』はそっちの本棚にあると思っていたら、急にきのう目に飛び込んできて、
 お前こっちにいたのか!
 気になったが読まずにきのうは寝て、今朝開いたら冒頭の、「現実さんへの手紙」という序文があった。「わたし」といううのは坂口恭平の言う「現実さん」なのかもしれない。それはわたしが書く小説に出てくる「社会くん」とも似ている。
「社会くん」はわたしに対して社会が言ってきそうなことを言ってくる。私がなにか書くと、
「でもそんなに社会は甘くないよ」とか
「あなたはそう言うけれどこういう場面になったらどうするの」
 とか言ってくる。
「わたし」は(これは完全にわたしではなく「わたし」の所業なんだけど)今、「社会くん」の言葉として二つ挙げたけれど、「わたし」は具体的な言葉を一つ挙げるだけでは物足りなくて、
「具体的なものをもう一つぐらい書いてよ」
 と言ってきた。それに応えるためにわたしは具体的な「社会くん」の言葉を二つ書いた。大体いつもそうで、たとえば「モヤモヤしている」と言うためにも
 不安
 だけでは足りず、
 不安・焦り・イライラ
 と三つくらい挙げてと要請してくる。
 とにかくわたしはそういう「わたし」をじっくり観察してみたい。
 山崎努が気になりだして、ちょうど先日発売された「新潮」に山下澄人との対談が掲載されている。わたしは一昨日それを買って、対談のところは一昨日のうちに読み始めた。まだ全部は読んでいない。

全てはその瞬間に起きるわけで、そのとき、自分のなかから湧き上がってくるものを大事にしたいなと思ってるんだ。ただ、それをやり過ぎると物語から逸脱しちゃうわけだよね。物語っていうのはキャラクターの居場所だから、それがなくなってしまうと死んでしまう。そこのところの微妙な匙加減を見極めるのが難しい。それはあなたの小説にも通じるところで、だからすごく面白いと思った。
(山﨑努、山下澄人「対談 演技と小説が交わるところ」『新潮』2024年3月号、新潮社、p.199)

 正直言えばこのわたしの文章を読むのはNとMとシだけでいい。あとの人に読んで欲しいとはあまり思わない。拒絶と言うわけではないけれど、思い返してみると、それは今までもずっとそうで、noteで日記を書いていたときはツイッターとインスタで毎日宣伝をしていたけれど、読んで欲しいのは数人しかいなかった。その人の目に留まるように祈りながら毎日ツイッター、インスタで宣伝していたけれど、はてなブログで書き始める前に、
 べつにそんなギャンブルで、その人に読んでもらえるように、って、全世界に公開しないで、その人に送りつけてしまえばそれで済むじゃないか
 で、その形にした。
 わたしを観察する時間は長ければ長いほうがいい。だから長生きしたほうがいいんだけど、わざわざ「長生きできますように」と祈るまでのことはしない。
 初もうでは小さいときはそのときの夢をお願いしていた。マツコ・デラックスだったかもしれないが
 神さまにはお願いごとをするんじゃなくて、昨年無事に過ごさせていただきました。ありがとうございました。と感謝を伝えに行く場だ
 と言っていた。マツコではなかったかもしれないけれど、誰かはたしかにそう言っていた。「わたし」はおじさん臭い考え方だなと思っていた。しかし年が経つと本当にその通りだと思うようになった。
 昨年無事に過ごすことができて、こうして新年を迎えることができました。ありがとうございました。
 心の底がどこにあるのか分からないから心の底(さっきからソコという漢字が書けない。これは手書きで書いている。「庭」になってしまう。心の庭。)からその言葉が出てきたとは書かないけれど、するりとその言葉が出るようになった。

だけどさ、あの沢田竜彦(筆者注:山田太一脚本『早春スケッチブック』で山﨑努が演じたキャラクター)ってキャラクターはとにかく喋るじゃん。息子やその義理の妹を相手にさ。焚き火しながら、酒を飲みながら、もうやたら喋る。お説教みたいな感じで、映画を観たくても我慢しろとか、好きなものがないのは恥ずかしいことだ、とか、そんなことばっかり言う。俺、あるとき山田太一さんに聞いたんだ。なんでこの男は、偉そうなことばっかり喋るんですか?って。そしたら、その答えが見事だった。喋ることがないんです、と。沢田竜彦には、血のつながった息子と彼の義理の妹、それから息子の母親や、彼女が再婚した相手に対して、喋ることがないんですって言うわけ。だからあんなことしか話せないんだって。改めてこの人はすごいと思った。
(同前、pp.205-206)