PINFU

毎日書く訓練

ディオニソスの祭り(20)

2024/03/09
 土曜日は起きたら昼前のことが多いけれど、今朝は八時に起きた
 という文章を頭の中で思って、今日はそこから書き始めようと書いてみたけれど、もうそれは頭の中で完成していて、改めて書き出すまでのこともなかった、と書いて思った。
 考えていることはわりとあるような気がしている、カン違いかもしれないけれど、あとになると忘れてしまう。
 残業をして同僚とご飯を食べて、それなりにキャリアを重ねてくると、
「まだそんなことも知らなかったの?」
「一緒に入ったナニナニさんは知ってたよ」
「ナニナニさんはここまでできてるよ」
「もうワンランク上の人事評価を狙いたいとは思わないの?」
 いろいろプレッシャーがかかってくるという話をしていた。わたしは年齢はその人より上だが、キャリアは一年目なので、基本的にはみんな褒めてくれる。仕事自体も新しく覚えることが多いから、こんなことも知らないの?とは言われない。そこにはわりと自覚的にいると思っている。だからこうして余裕で仕事ができているのは新人のうちで、もう二年もすればわたしもその人と同じようなことを言われるようになる。
 基本的には人事評価は信用していない。あくまでも自分の評価が大切で、その中でいろいろあるから困るんだけど、自分ルール、他人のルールはあくまでも「他人のルール」であって自分のルールではない、その戦いだ、自分のルールをどこまで守れるか、
 人生とは嵐が過ぎ去るのを待つことではなく嵐の中でどんなダンスを踊るかだ
 誰かがツイートだったか、リツイートしようと思って忘れてしまったので原文には当たらない。Hさんは、
「人から聞いた話だからどこまで正しいかわからないけれど」
 と話し始めた。人から聞いた話と、本を読んで知った話はHさんの中では線引きがあるらしいことをその発言から想像して面白い。もちろん誰がどういう状況で言っているかによるとも思う。一概に全部が全部、人から聞いた話だからどこまで正しいかわからない、と考えているわけではない。小島信夫が言えば(書くではなく直接口で語りかければ)それはHさんにとって正しいことになる。いや、これも間違っていて、正しいとか正しくないとかでもないのかもしれない。そこに「正しい」という言葉を当てはめてしまったから間違っていて、正しいというより、どんなに尊敬している人でもこれはちょっと違うよなと思うこともある。
 Nさん(野本さんではありません。仕事の同僚のNさんです)はこれをしても許されるのに私がしたら怒られるのは気に食わない、とその昨日残業後にご飯を食べた人が言っていた。字義通りに受け取ればそれは不公平だということになるんだけど、その人はNさんより三つキャリアが上で、だから上司からすればそもそもニ人は同じ土俵に立っていないから、それは「不公平」じゃなくて、上司はその人を評価しているから甘やかさない、というふうにも取れる。自分の都合の良いように解釈していけば良いと言うのは言葉が間違っているかもしれないけれど、自分が健やかでいるために、不公平を「不公平」として受け取らないために、勝手な物語を作ってもいいんじゃないか。数式は解決してくれないが文学は解決してくれる。山下澄人の「創作合評」を読んでいると、ほんとに文学は実用的だと感じる。
 これ以上書くと間違えそうな気がするのでここで一旦やめておく。
「私には仲良くなりたい人がいて、その人と喋りたいと思う。でも相手は内気な人で、なかなか殻を破って外に出てこようとはしない人です。でもその人にはその人自身が気がついていない良い面がたくさんあるから教えてあげたい、と思っているのですがどうしたらいいでしょうか?」
 という質問に、
「仲良くなりたいから喋りたいというところまでは良かったが、その後の、その人自身が気がついていない良いところ教えてあげたいというのはなんだか上から目線だ。余計なお世話な気がする。言葉にするから間違う。言葉にせず話しかければよかった」
 と山下澄人は答えている。言葉にすると間違う。
 坂口恭平が、とにかく書き続けたらどうだ。起きた瞬間から寝る瞬間まで、一時の休みもなく書き続けたらどうだ。そうすれば死ぬことなんて考えていられなくなる。とツイートしていた。
 前に日記だと思うけれど、わたしは「小説以上にTwitterを眺めている時間が長いから自分にとってはTwitterが文学だ」と書いたことがあって、今改めて書いてみて、「親代わり」のようなニュアンスで、「Twitterが私の文学代わりだ」でもいい。そっちに更新した方がいい。
 本は閉じられている世界でそこからわたしと語り手と登場人物しかいない。そこから物理的な世界に何かが発信されるわけではない。わたしは国語の教科書の表紙とか、大学の文系学部のパンフレットにありそうな、本を開くとそこからいろんな人物や世界観が飛び出しているグラフィックがあまり好きではない。本はこことは違う世界に連れて行ってくれるわけではない。それだったらゲームの方が吸引力がある。本はそれとは違う効能がある。具体的に「これ」とはまだ言えない。さっき「好きではない」と書いた。好きとか嫌いとか何の信用にもならない。そもそも年齢を重ねてどんどん視野が狭くなり、すでに視野が狭いんだけど、さらに狭くなって頑固親父のようになっていく。同僚とそんな話をしたわけではなかったけれど、聞きながら、当たり前だけどみんなそれぞれ見えている世界が違う、ということを改めて思う。もしかしたらわたしはわたしが見ている世界がすべてのような、多少気がしていたのかもしれない。環境によって、背景によって見える景色が全然違う。そんなの当たり前なんだけど忘れている。