PINFU

毎日書く訓練

万事快調(9)

2024/01/09
 ゴダール映画史、「映画史」という映画もあるらしいけれどわたしが読んでいるのはちくま文庫から出ているその「映画史」を作るとき書いていた(講演していた?)文章で、ゴダールを意識したのは坂口恭平山下澄人がスペースで話をしているときだった。きのうわたしもスペースをして、今年はいろんな人のところにガンガン行こうと思っている。坂口恭平ゴダールの文章を朗読していたのと、
 ゴダールは最後まで観れないんですよね、三十分ぐらいしたらもう自分で作りたくなって
 でもさ、それがゴダールの正しい見方じゃない? ゴダールをさ分析してさ、言葉で囲ってさ、そんなことゴダールは求めてないよ
 山下澄人が爆笑していた、その笑っているのが救いだった。
「私が好むのは日記の原理である。たとえば私が小説の構想を練っているとして、その間の私の生活、いわばその二週間の私のすべてを映画にしてみたいと思う。それだけでいい。私は小説を書こうとする。書き上がるかどうかどうでもいい。とにかくそれは小説を書こうとしている間の私の生活であり、私が見たり話したりする人たちであり、小説を書こうとしてる私の姿である。」
 クソみたいなやつが現れた。そもそもこの部署からこの前一人異動していった。その人はなんというかいろいろ引き寄せてしまう人で、ヘンなのはだいたいその人が引き当てていたんだけど、異動する前に、
「私がいなくなったら今度は八嶋さんにくるかもね」
 と言った。呪いだと思った。正直気持ちが悪い。なんとかこの呪いを、そしてまわりの、いや、一部の人だけだけれど同じようなことを言っている。今日だって、
「なんかよく当たるね」
 と言ってきた。本人はたのしい冗談のつもりなのかもしれないけれど冗談じゃない。なんでか知らないけれどセクシャリティーの話になって、
「八嶋くんはそっち?」
 と言われて否定も肯定もしなかった。もしストレートであったとして、
「ちがいますよ! ゲイじゃないですよ」
 と言うことは差別だ。
「でもいいと思う。私はそういう人がいてもいいと思うし」
(そういう人? いてもいいと思うし?)
「ぜんぜん差別とかはしてないよ」
 この言葉がものすごく差別的に感じるのはなぜだろう。なぜだろう、というか、うん、やっぱ間違っていると思うよ。