PINFU

毎日書く訓練

万事快調(28)

2024/02/01
 きのう山下澄人『FICTION』から一つ抜き書きしましたが、ネット記事の書評で、
「こうじゃなきゃならないなんてことはどこにもない。わかってから書くという発想が間違っている。とにかく書けばいい。やればいい。そしてそれをじっと見ればいい」
 この一文が引用されていました。何ページに書かれているのかはわからないのですが、とにかくじっと見てみよう、と思っています。
『ルンタ』という作品にも、冒頭で「わたし」(「ぼく」だったかもしれません)が夜中三時に旅に出ようとします。もうこの部屋に戻ってくるつもりもありません。荷物も持っていくけれど、生きていくために必要なものを部屋から持っていくというより、目についたから持っていくというか、そこに鞄があったから担いでみた、というような感じで、靴も、ブーツを「わたし」は持っていたけれど、どうせボロボロになって捨てるからいちばん汚いスニーカーを履いて、破れて履き潰したら裸足で歩こう、と言って部屋を出て行きます。今は冬です。冬に読むと冬の感じがします。でも『ルンタ』は冬です。雪山を馬(ルンタ)と一緒に歩きます。ルンタは喫茶店の壁にかけられた絵だったか、写真だったか、とにかく喫茶店の壁にかけられていた馬でしたが、わたしが一緒にルンタを連れて行きました。
 その『ルンタ』の冒頭に、
「他人から見ればまるで自殺のように見えるかもしれないが、わたしはまだ自殺する気にはならないし、わたしは、この「わたし」という装置をもっと観察してみたい。できればその時間は長い方がいい。しかし長生きできるように、と神に祈ったりはしない」
 祈るってのはもっと違うことだ、みたいなことを言います。
 筆が乗らなくなるといいますか、次に書くことが浮かばなくなれば、浮かんでいるときはそれを書けばいいけれど、浮かばなくなればその都度その都度でなにかを書き出さないといけません。それは朝起きて、休みの日はだいたい朝に書くけれど、そのときになにかと考えるのと同じなので、明日の分は明日やればいいというか、やろうと思えばいくらでも書けるわけで、二千字書いて止まった、またなにかないかと探して二千字書いた、……というのを一日中つづけていけばいくらでも書けるけれど、でもほかに家のこともやらなくてはいけないし、どうやら書けるからといっていくらでも書けばいいってもんでもないらしい。それは村上春樹坂口恭平佐藤正午がそう言っていたんですが、でもわたしがいろいろ実践して(試して)出てきた方法論ではなく、この三人が同じことを書いていたのを鵜呑みにしているだけなので、それはそれで良くないなとは今思いました。自分で試してそうなったならいいけど……
 それでいろいろ試して今の形にはなっていますが、寝る前に『FICTION』を読んだらおもしろく、仕事に行くカバンには『残光』を入れていたんですが、今朝は『FICTION』を入れてきました。
 引用した書評で引用されていた文章はどこにあるのか探してみます。そういえばNさんも、
 今引用してみたい一文があるから探してみたけどどこにあるのかわからない、とか、そもそも本がどこにあるのかわからない、とか、そういうことを書くのがいいですね。
 最初読んだときは自由でいいなって感想だったんですけど、今日に向けて読み出したらちょっとそれだけじゃないように見えてきました。
 今度始まる企画のために、Nさんについて書くのやめておこう、そのときに書くネタがなくなると考えていたのですが、そういうことをしているうちはダメだと思うので、書けるものは全部書いておきます。それにたしなにあの日にNさんと話をしたけれど、またそのときに話したようなことを書いてもしょうがない。まだ一ヵ月あるわけだし、お互いにそのあいだに私生活でもいろいろ変化はあるだろうし、季節も変わる、一ヵ月は結構長い。わたしはバイトを含めれば今の職場に三年いる。今度の四月を迎えたら四年目に入る。
 四年目って結構な長さだよね、あんまりいつまでも子どもの真似をしていられないよ
 もう自分の言葉だったのか、相手の言葉だったのかわからない。しかし人間で言えば四歳(わたしも人間だけど)、
 人間ですか?
 人間って何なんですかね? そもそもなにをもって「わたし」なんでしょう

いずれにしてもぼくはこの欄を埋めるためにここにいる。みんなそうでしょ。何かを維持するため、させるためにここにいる。わたしって何、わたしはあなたでもある、あなたはわたしである、なんていい出したらみんな困っちゃう。みんなにはまだ肉がある。このこれと指せるものがある。いつか消えてなくなるものだとしても。だけどぼくは死んでいる。みんなと少し違う。だから少し整えないといけない。整えるふりをして整えられたふりをしなければならない。そちらでたとえれば空気を集めてひとつの何か、この場合は「ぼく」にするということ。しかしこれはさっき山田さんがいったようにこれを書いているものの想像です。想像、空想。しかし空想想像ということにしているといえもする。ぼくがそうさせているといえもする。どちらともいえない。簡単に切って捨てることもできるが何かが妙に引っかかる。そうですよね? 肉体というはっきりした入れ物がなくなって、どんなかなあ、わからない。どんなになってるかわからない者が話す死
者の語り
「いんちきやん
「劇やな
「なげぇよ
 メグだ。
「いつまでもてめぇの空想に付き合わせてんじゃねぇよ。こっちは忙しいんだよ。過去書いて小銭稼ぎしてんのに付き合ってられるかよ。唯我くんもさー、ホイホイ呼び出されて出て来てんじゃねぇよ。あっちはあっちでやることあんだろーがよ。そっちに専念してろよ。どうせみんなそっち行くんだからよ。同窓会したきゃそこでしろよ
山下澄人「FICTION 07 助けになる習慣」『FICTION』新潮社、pp.146-147)

 アウトドア般若心経と同じで、集まっているとまるで般若心経のように読めるが、実際は街のあらゆるところから持ってきた写真で、ばらけると意味をなさない一文字になる。その集まっているときに見えている意味もそう見えているだけで、隣近所がたまたまくっついているだけとも言える。
 人間ってなんですか?
 元素の集まり
 元素の集まりがバラバラ動いている。元素の集まりがものを考えたり書いたり
「あの元素の集まりが気に食わない」だとか、
「あの元素の集まりのことが好きだ」とか、
「あの元素の集まりのあの言い方が気に食わなかった」とか、そういうことを元素の集まり同士が集まって言っています。
 あっ、窓の外に「元素の集まり」が散歩をしている。「元素の集まりA」の右手の先にはリード(それだって「元素の集まりB」だ)、同じく「元素の集まりC」として犬が歩いている。犬はこの道はゴツゴツしていると朝夕毎日思う。もう少し先に大きな凹みがある。犬はそこに足を入れずに歩き抜けるのが得意で好きだった。「元素の集まりA 」は「元素の集まりC」がそんなことを考えているとはわからない。「元素の集まりC」はそこを飛び越えた。
「元素の集まりA」である人間タケは昭和二十年の生まれで、兄弟姉妹は十一人いたが皆死んだ。残っているのはわたしだけになり、わたしは去年の夏に死んだわたしの一個上の姉さんの息子から電話がかかってきた。
 トシヨ姉が死んだとき、葬儀は家族葬で、そういえばコロナがあるから人は呼ばないと言っていた。タケはまだ死んでいなかった。しかしこの世にいる全員がまだ死んでいなかった。死んでいないからこの世にいる。死ねばあの世に行く。どうやらあの世というのはあるらしいが、この齢になると、タケはあの世があろうとなかろうとどうでもよかった。もしわたしのような、もうすぐ死ぬ老人しかこの世に初めからいなかったら、宗教は生まれなかったかもしれない。「宗教」とくくると大きすぎるかもしれないが、あの世があると考えるのは死を恐れている人の発想じゃないか。死が恐ろしくなければ死後にも世界があるなんて考えなくていい。
 人間には「場」が必要なんだね
 昼間この人はわたしになにか言っていたが、わたしは忘れていて、
 俺も忘れた
 彼も忘れたようだ。しかしなにかおもしろいことを言っていた。
 小説にも「場」が必要みたいだがあんまり考えていない。「場」というのもよく考えていないが、たぶんそれは舞台のようなもの、大学で作ったバンドのメンバーが練習のために金を出し合って借りた駅前の裏路地にあるスタジオのようなもの、そこで私わたしたちは集まって即興の劇をやっていた。観客は誰もいない。わたしたちが勝手に集まってそこで話をしているだけだ。わたしは荷物を降ろして、鏡の下のところに置いていたが、タケウチはずっとリュックを担いでそのまま始まった。だれが始めたのかもよく覚えていない。わたしたちはここに1時間35分22秒いた。いたというか劇が始まってからそれだけの時間が経っていた。録音も時間も測っていない。これをもとに劇を作るわけでもない。他人から見ればただのおしゃべり、しかしそれを一時間半以上止めずにずっとやっている。だれかはずっとしゃべり続けている。沈黙が生まれて、生まれた瞬間に間を埋めるためにしゃべりだすのではない。ずっと喋っている。みんな言いたいことがあるのか、というとそういうわけでもない。よく知っている人たちだが、皆それぞれ何をやっているのかはわからない。集まり、劇をする、多少は自分の実人生に絡んでくるような話もその場でしているかもしれないが、わたしはもう長くなりすぎて覚えていない。覚えているのはその人の背丈、背の高い人は背丈、肩の広い人は肩幅、尻の大きい人は尻、鼻がテカっている人は鼻、手が荒れている人はその手荒れと指の絆創膏。あいつは目が充血していた。メガネ。そういうことしか覚えていない。金を出し合ってバラバラに帰る。
 ハヤシバラさんは、以前は小説を書いている、と言っていたが、今は
 長く文章が書けなくなって、やっぱり小説って長く書けないとダメじゃないですか。だから長く書けないから書けなくなって、でも詩は、長くなくていいし、まぁ長くなってもいいんだけど、長く書かなきゃいけないってことはないから気が楽になって、今は詩を書いたりしているんですけど
 そこからわたし以外の人で、「世に詩で出るにはどうしたらいいか」とかそんな話になってしまって、それはあんまりどうでもよくて、わたしはハヤシバラさんの書くものが読みたかったから、何度かイベントで会っているので今度会ったらどこで読めるのか聞いておきますね
 お願いします