PINFU

毎日書く訓練

万事快調(23)

2024/01/25
 松本人志は好きだし、なんで?って理由を聞かれてもわからないけれど天才だと思っていたけれど、Twitterなどで(おもにTwitterか)松本人志がいなくなったら日本のテレビは終わる、と言っている人もいるけれど、わたしはそういう危機感はまったくなく、それは、もう充分やったんじゃね?とか、次の世代の芸人がいるとかそういう意味ではなく、いなければいないでその役目は誰かがやるという意味で、たとえばピカソマティスがいなかったとしても、ピカソマティスの代わりはいた。同じ作風で同じような作品を作ったということではなく役割として。
 ピカソマティスだって、本当はその百年前にいた大天才の代わりに登場した作家だったのかもしれない。古谷利裕が一九〇五年から一九一三年の数年間(正しい西暦は忘れた)は、ピカソマティスはニ人ともとんでもない発展のしかたをしているという話で、もしかしたらこれも世界五分前仮説のような感じだけど、論争的なことをしたいわけではない。その百年前にピカソマティスを合わせたような人物が世界に出てくる予定だったけれど出てこなかった。出てきたけれどなにかの神の都合でそうはならなかった。その才能が二つに分裂して百年後にピカソマティスという形で現れたのかもしれない。それに一九〇〇年代にピカソマティスが現れなかったとしても、その仕事は後世の人が、さらに五人に分裂するのか、一人の大天才になるのかはわからないけれど出てくる。松本人志は誰かの代わりに出てきた天才とも言えるし、その仕事は代わりに誰かができる。
 松本人志を陥れているというか、茶化して書いているわけではない。松本人志ファンはそういう風に思うかもしれないけれどそうではなくて、べつにどっちがどれだけ松ちゃんのことを好きかと争うつもりはないけれど、わたしだって松ちゃんのファンだ。今までテレビもたのしく観ていた。でも裁判の行方も気にならないし、次々いろんなニュースが出てきているが、それらをTwitterのタイムラインに流れてきて見ても「へぇー」って感じで、文春の記事も信じていない(基本的に週刊誌の記事を信じていない)し、松ちゃんの「事実無根」も信じていない。被害に遭われた方がお気の毒だとは思うがそれ以上の気持ちはない。
 きのうラジオを聞いていてなんの話だったか、誰の言葉だったか、
 あるとき自分のことは二の次になる
 いや、ラジオを聞いてわたしがそう思ったのか、まぁいいや、忘れたけれど、とにかくわたしが考えていたのは、あっ、思い出した
 若いときは自分のことで精一杯だから
 と言っていたのだ。で、わたしは友達に子どもが生まれた人がいて、自分と比べるわけでもない
 比較三原則!
 けれど、今の自分が子どもを産み育てるなんて想像もできない。自分の生活もままならない、ままなってはいるけれど、ここに他人が入ってきて、まさに自分のことで精一杯な状態で、自分がいちばんかわいいし、自分にいちばんおいしいものを食べさせたいし、自分がいい思いをするようにしたい。今のところは自分に精一杯だなと考えたときにもしかしたら、それがあるとき「バン!」とひっくり返るのかもしれない、それは何度もあげているIさんの、
 書いていくしかないんだよ
 正直、自分にしか興味がないし、外に興味が向いていきそうな予感もない、と言っていたときにIさんがそう言ったのだけど、それは子どもが生まれるとか、結婚するとか、そもそも自分の環境が変わる理由を考えたときに真っ先に「出産」「結婚」が出てくるのが貧困な思考から出てくるアイディアというか、そもそもの引き出しが少ない感じがする。「真夜中のカーボーイ」を太田光伊集院光がしゃべっているラジオで、ダスティン・ホフマンの妄想の話なんだけど、その中でダスティン・ホフマンがラスベガスに遊びに来たセレブ(それも中流階級のセレブ。つまりちょっと下品)たちに自分の作った料理を振る舞っているんだけど、それが普段自分が極貧生活の中で食べている豆とトマトを煮しめたような汚い飯で、それが、
 貧困な脳みそから出てくるいちばん派手な夢
 なんだけどまさにそんな感じ。
 他人にわかるような理由で自分が変わるのではなく、あるとき急に変わる