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毎日書く訓練

万事快調(18)

2024/01/18
私はたとえば、言うべきことをほとんどもっていないときにかぎって、あれこれ多くのことをしゃべってしまいます。すると人々は、あいつは言うべきことをたくさんもっていると考えてしまうのですが、でも実際は、その反対なのです。そうした場合の私は、こう言ってよければ、テレビのようなものです。テレビでは、ほとんどなにも言わないようにするために、
あるいはまた、言うべきなにかを言わないようにするために、多くのことが語られます。そうであってはいけないわけで、私は今では、自分のそうしたしゃべり方を自制しようとしています。
ゴダールゴダール映画史(全)』ちくま学芸文庫、p. )

 千葉雅也がいいことをツイートしていたので、ゴダール映画史は日記帳のような扱いをしているから、毎日それなりの分量の文章はここに書いているから、文章は書かないけれど、思いついたことはどんどんゴダール映画史に書き込んでいる。そんなことを考えていたら保坂和志の言葉をまとめてアップしているTwitterが、「小説や文章を読んで思い出したことをそのままずっと覚えていたらそれはすごいことだ」というようなことを書いていた。ちゃんとしたことは忘れた。もっとちゃんとしたことを言っていた。NHK阪神淡路大震災のドキュメンタリーをやっている。夫婦が登場している。不妊治療の末ようやく生まれてきた女の子は出産後、震災によって十分な治療が受けられず、数日後に亡くなった、という話だった。
 とにかくなにかないかと頭の中をかき出している。なにも書くことがないことはいいことなのかもしれない。
 十分の三カスやで
 わりといい感じに進んできているので、そのうち本にするかはわからないけれど、たぶん本にするけれど、そのときに削るものは削る、とにかく先へ進もうというか、べつに先に進まなくてもいいんじゃないかと思って、こうして毎日書き連ねているけれど、はじめのうちどんなことを書いていたかは忘れているから、自分がなに書いているのか分からなくなる。
 小島信夫『残光』で何度も挫折したのはまさに、なにを書いているのか分からなくなったからだ。はじめの山崎勉という英文学者の話をしているときは、へぇーと思いながら読んでいたが、だんだんそもそもちゃんと、今なにを書いているのかを気にしながら読んでいなかったから、とにかく前へ、前へ、の精神で読み進めていたから、ここになにが書いてあるとかまったく気にしていなくて、そうしたら本当になにを書いているのか分からなくなって、空中分解してやめた。相変わらず空中分解はしていて、『残光』は読むのに時間がかかる。ゆっくり読めばいい。日記を書くのに飽きているからこうしてなんとか……、もうきょうはダメだ、あんまりうまくいっていない、そのうまくいってるとかいってないとかって誰が決めてるんだよ!
 止めんなよ!
 もう「わたし」は止めていないのかもしれないけれど、とにかく手が止まったら「わたし」のせいにする。
 止めんな!
 そのうちすることもなくなったので靴を脱いで書いてみる。ショッピングモールのコーヒーショップ、だから昨日の小説に、よくコーヒーを登場させちゃうけどなんか嫌だね、みたいな話を書いた気がする。また昨日の話だけどひさしぶりに風呂屋に行った。リニューアルオープンしてもうずいぶん経ったから空いているかな、平日の夜は大学生は多かったが混んではいなかった、と思って行ったら混んでいて、
 芋洗い状態でしょ?
 芋洗い状態ではなかったが、やっぱりそのときには里芋を洗っている感じをイメージしてしまう。YouTubeで「食わず嫌い王決定戦」をよく見ていて、アルフィーの高見沢がきぬかつぎをたべていた。こんな料理があることは知らなかった