PINFU

毎日書く訓練

ディオニソスの祭り(17)

2024/03/04
「そうです、あなたはすぐにこの家をお去りにならなければなりません」
 夫にたいする明らさまな敵意だ、といい、次の手紙を証拠として引用する。ここのところを氏の文章はこう綴られている。
ヘルダーリンとズゼッテはこれでこの家とヘルダーリンとのつながりに関しては事が終ったと感じた。こういう破局的な形に事を運んだことが後にズゼッテの切ない悔いとなった。しかし彼女はあの言葉を叫ばずにはいられなかったのである。彼女はその場合の自分の気持を的確に把掘してやがてヘルダーリンにこう書き送った。『それ(この家を去るようにと強く頼んだこと)はあのような暴力的な引き裂きに会ってわたしの心のなかにあまりにも声高になったわたしの愛をすっかり感じとることへの恐怖だったと信じます。わたしの感じた激しい力がその場でわたしをあまりにもたやす負かしてしまったのです』」
 筆者は、ここのところで、一つ大きく深呼吸することにしよう。ズゼッテの声と顔があまりにうかびすぎるからである。夫の顔つきもヘルダーリンの様子も、息苦しいまでにうかんでくるからである。
 だが、そこで次を見なければならない。
 さっきの筆者の引用文に続いてパーレンがあって、
(これはまもなくわれわれが見ることになるいわゆるディオティーマの手紙の一節である。)
 と書いてあるからである。先生の文章は、このあとヘルダーリンが「儀礼を失わぬ態度で去った」と記してある。
小島信夫『菅野満子の手紙』集英社、p.6)

 筆者の手もとには、ただ今『ヒュペーリオン』もないし、それに筆者が読み終えたつもりになっている先生のこの著作の上巻の中の『ヒュペーリオン』からの引用の中の「ディオティーマ」の言葉の中に、この十七通の手紙がそっくりつかわれているのであったかもはっきり記憶していない。これは筆者の怠惰のせいで、こんなこと大きな声でいえたものではないが、筆者は近頃、とても重要、重大なことも、忘却の淵に沈んでしまっていることをみずから発見しても、ひたすら許しを乞うて、しばし、その淵に漂っていたい気がするのである。
 先生は筆者より一廻り年長である。この生意気な態度に失笑されるであろう。ここで筆者は、十一歳であったヘンリーが、ヘルダーリンが去ったあと、二、三日後に書いた手紙をちょっと書きうつしてみることにしよう。(同上、p.7)

 第二巻は九九年に出来る。三五〇部の一冊を垣根ごしにズゼッテに渡した。ここのところを筆者は今、伝記のページをめくってさがしあてようとするのであるが、どこに行ったか見当らない。彼らはその方法でしか会うことができなくなっているからであり、その一冊が今ものこっているのである。ゴンタルト家であったのか、それとも図書館のようなところであったのであろうか。筆者は締切の時間にせまられて、今のところこのままにして先きを急がねばならない。(同上、p.9)

 筆者はここで、先生の伝記を借用してきたことを改めてお詫びすると同時に、読者に向ってくりかえすことにする。
 ズゼッテは、さっきもいったように、ズゼッテとしてではなかった。あとで「ディオティーマの手紙」と呼ばれるようになるところの手紙を書くところの女であったと。なぜなら『ヒュペーリオン』第一巻はもう世に出て五ヶ月になっているし、第二巻は書きつづけられ、事実、二年後に、その一冊は、垣根ごしに手渡されるのだから。
 伝記にあるように、ある日ヘルダーリンの手紙は、彼女の夫の手に渡った。彼は『ヒュペーリオン』の中で生きたであろうか。筆都は今月分を渡したあとでゆっくりしらべて見ようと思う。この宿題が筆者の一つの楽しみとさえなった。(同上、p.10)

(後日記)基本的に「ヒュペーリオン」も「ヘルダーリン」も「ズゼッテ」も「ディオティーマ」もなんなのか分かっていない。Twitterに、
「『美濃』もそうだったけど、『菅野満子の手紙』も連載三回目くらいからおもしろくなってきた」
 と書いたけど、ここはまだ一回目のところでなにを話題にしているのか分からない、から分からないまま読んでいて、『菅野満子の手紙』は借りている本なのでいつものように書き込みはできないから、でもノートに書き写すほどの時間と労力はかけていられないので写真を撮って保管している。それをこうして活字にするまでに十日ほど経ってやっとやった。それで思ったけど、内容については分からないことが多い、そもそも固有名詞がなんなのか分からない。調べればいいけど調べないから分からないままで読み進めて、いいな、と思ったところを写真に撮っているけれど、ぜんぶ「筆者」(実際には「筆者」には「わたし」とルビが振ってある)が登場しているところしか引用していない。