PINFU

毎日書く訓練

2023/10/20

 また日記を書きはじめた。

「日記を書き始めてしばらくして、僕はこれを3年間続けようと思った。ひとりの人間が生きていることの行き場のない複雑さが勝手に刻まれると思ったからだ。」(福尾匠、Twitter

 

 山下澄人の質問。まず質問者の質問。

「舞台というものに行ってみたい行ってみたいと思いつつ、なかなか行けていません。私のような人は多いと思っています。その原因をつくっているものはなんだと山下さんはお考えになりますか? 私のような人をあともう一押しするには、どんなことが必用なのでしょうか?」

 回答。

「行ってみたいのに行かないのは何故かなんていうふうに話を複雑にしない方がいいと思います。宣伝が足りねぇのか精進が足りねえのかと演劇者たちは混乱するし「そうじゃないのわたしのせいなの」とあなたはあなたで混乱する。席は常々おからだのふじゆうなかたに譲りたいと思っているのになかなか譲れないわたしは人非人だ、なんていう解釈は式が複雑すぎるしその式はそもそも間違えている。そうさせる勢力があるのです。「貴様たちを自発的になどさせねぇぞ」という勢力。しかしその勢力は特定の誰かというわけではないので非常に厄介ではあるが振り払おうとさえすれば振り払えるのです。行きたきゃ行けばいい。逆に死ぬ間際、もう絶対行けないことが確定したときに「ああ劇観ればよかった」と後悔を堪能して死ぬのも死ぬ醍醐味でもある。

 

 先々週、保坂和志『小説の誕生』を3時間くらい読みつづけて、その中に、

「あなた(読者)は私(保坂)にたいして、あなたは引用ばかりしていて自分の意見はないのか? と思うかもしれないが、引用してるということはこれは私の意見でもあるのだ」

 と書いていた。記憶で書いているので一言一句ただしくはない。日記に書いたか小説に書いたかどこに書いたか忘れたけど、

「◯◯◯というのをナントカさんが言っていた」と書いたときに、なんか、言葉の責任をその人に負わせている感じがした。「これはナントカさんの言葉であってわたしの言葉ではありません。」と言ってる感じがして嫌だったんだけど、でも引用してるってことはそれですでにわたしの意見なんだからそれでよかった。

 ひさしぶりに外出し、新大久保のコーヒーショップで「残光で時間のかかる読書」の6回を書く。そのままインスタにアップ。

 帰りの電車、吉田拓郎襟裳岬」をきいてるうちに乗り過ごす。というか降り過ごす? 降りるはずのところを降りずに、次の駅で気づいて降りる。たまにやってしまうんだけど、なんでかわかんないけど、気がついたときにすぐ降りれば被害はすくなく済むんだけど、まっいっか、って降りずにずるずる行ってしまうことがある。あれはよくわからない。

 日記は小説を書きたくなってやめた。小説のためには自分を隠すというか、自分をベールにつつんで隠さないと、毎日日記書いてさらしてるのもダメなんじゃないか、でも単純に「飽きた」ってこともあるんだろうけど、それでやめて、だからまた小説書きたいとか、ほかの言い訳言ってやめるだろうけど、今はやってみる。