同期で入った同僚はわたしとは社会属性?
「そうやって「社会」をもとに考えるなよ」
そう言われましても、でもあなたの言ってることもすごく分かる。わたしもできればそうしたいんだけどなかなかできないよね。
「でもそうしないようにするのが大事だよ。いますぐにはできなくても、ちょっっとづつやるんだよ」
ほんとそのとおりだ、ね、君がいま忠告してくれたからこうやっていま考えられてるわけだし。
「なんだよ、褒めるなよ。きもちわるいよ」
きもちわるいの?
「きもちわるいっていうか、居心地が悪いよ」
もう飽きてきたね。
「飽きた」
ありがとう、また今度。
「はい、また今度」
ということで、これはわたしの中の「○○くん」なんだろう。自分の中にでてくる社会的な言葉を言ってくる子は「社会くん」という名前がついていて、わたしの日記、小説、文章のなかにたびたび登場する。いつも「社会くん」には、「どうしてそんなこと言うの?」って感じで当たってしまう。でも「社会くん」がいるから社会生活ができている。この子がいなかったら社会の中でバランスが取れない。
それで話を戻すんだけど、また横にずれるけど、この「話を戻す」って言葉は書かないで済むならあんまり書きたくない。でも書いてしまう、書いている、のは、たぶんそれは読者の人がわかりやすように、ってことではなくて、自分がそれを書かないと空中分裂してしまうからなのかもしれない。保坂和志が、
「私とか一人称は会話の中では隠れていて、いちいち、私は水を飲む、とかって言い方をしないけど、文章になるとでてくるのは、そうすることで、人間の能力がオーバーランしないように、人称を使うことで抑制しているんじゃないか」
と言ってたそれがいちばんしっくりくる。書かなくていい。でも書いておかないとほんとうにどこに文章?わたしの脳みそ?がどこに飛んでいってしまうか分からないから、それをおさえるために書いているのかもしれない。なるほど。だから「話を戻すと」って言葉も書かなくていいんだけど、書かないと分裂しちゃうから書いている。
それで(この「それで」も「話を戻すと」と同じ効果だ)、同僚の子はわたしとはまったくちがう人生を歩んできたから、たぶんわたしのようなタイプは今まで見たことがないのかもしれない。見たことはあっても距離を取ってきたんだろう人種で、この前飲み会があったんだけど、ずっと冷めた目でわたしは見られていたらいい。でもわたしはかなり酔っていた、しかも記憶がない、記憶がなくなったのははじめてだ、から憶えてない。この前人に言われて知った。
しょうがない。ちょっと時間がないのでここまでにする。
仕事終わったのでまた書く。
しょうがない。俺は、わたしは飲み会はどんちゃん騒ぎする人間で生きてきたし、彼女はそうじゃない、静かなところで生きてきた。静かなところなのかどうなのかは知らない。でも他の人曰く「はじめてこういう人種を見た、というような顔で見ていた」そうだ。嫌われたくない、とも思うが、しょうがない。生きてきたところが違うのだから軋轢はある。軋轢ではないんだろう、べつに喧嘩別れしたわけじゃない、なのになにを悩んでいる? 悩んでたの? 悩んでないです。だから初めからなにもないです。