PINFU

毎日書く訓練

2023/10/18

 だれも見ていないところで日記を書きたくなったので、いつものnoteではなく、こっちに書くことにした。どのタイミングでこのアカウントを作ったのか分からない……、と書いているうちに思い出したんだけど、noteはかんぜんにアップする専門で、何人もフォローしているけれどほとんど読んでいない。それで、反対に、はてなブログは、「ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ」と「偽日記」を読むためだったけど、それもけっきょく読んでいない。こっちにアクセスしてくる習慣もなかった。
 いま、インスタのストーリーで「残光で時間のかかる読書」という連載をしている。タイトルはもういつものごとくセンスがないからだれかにつけてほしい。で、書いている。いまのところいい感じに進んではいるんだけど、今日は夜勤なので、たぶん夜には書いたりできない、でもそこで書かないといつ書くんだ! そうやって書かない言い訳をしていると、どんどん「社会」の側に搾取されていくぞ! きのうは研修があった。それでいろいろ資料がくばられてその中に、研修ではそこは触れられなかったんだけど、月収の平均が載っていたんだけどめちゃくちゃ低かった。安定はしているのかもしれない、しかしめちゃくちゃ低い。それだけでももらえているから満足しなきゃいけないんだろうか、というか、みんないくらもらっているのか、これでなんでそんな「平気な顔」をしていられるのかが分からない。わたしはずっと、ここ最近ずっと、
「お金のやりくりどうしたらいいんですかね」
 という話をしている。でもほかの人はそんな話まったくしていない。しない主義の人はそれでいいんだけど、そういうことなのか? みんなしない主義の人なのか? わたしは(今「俺」と書いて、消して「わたし」と書きなおした。いらないこだわりのような気もする)、( )の中を書いているうちになにを書こうとしたのか忘れたけれど、わたしはけっこう発狂的に、
「どうしたらいいんですか!」
「あの人のやり方を聞きたい!」
 とか言いまくっている。そんなのはだれも教えてくれなかったからみんなに聞くしかない。今ちょうど、お子さんが生まれた同僚がいて、その人も、
「どうしたらいいんですか?」
「どうしてましたか?」
 と聞きまくっている。これが正しい、というか、そうなるのが自然、だと思う。わたしもそれをやっている。同じことをやっているから、たぶんお互いに、なんとなくシンパシーのようなものを感じているのかもしれない。わからない。わたしの思い上がりかもしれない。かもしれない、というか、たぶんそうだろう。
 今度の「保坂ゼミ」にむけて、今まで読んでいなかった「胡蝶~」タイトルは長いので割愛する。「群像」で連載している小説の、最新回を読んでいる。もう水曜日か。今日は水曜日だ。その中に「わからない」「かもしれない」という言い方がたくさん出てくる。それは小島信夫にもそうだし、保坂和志にもわたしはyたくさん影響を受けたところではあるけれど、最近はあんまりそれをやらないようにしている……気がするけれど、そこまで意識しているわけでもないけれど、「あれ、そういえば最近そういうこと書いてないな」って感じというか、最近わたしは書いていなかったような気がしているんだけど、でも書いているから、気がついていないだけなんだろうけれど、保坂和志は「わからない」「かもしれない」とたくさん書いている。
 7月の「小説的思考塾」で山下澄人とのトークで、弱気になっている保坂さんがいた。その弱気な感じで(やっぱり保坂和志の文学は「マッチョ」な感じもする)書く小説が、これからたくさんでてきたらたのしいな、と思っていたけれど、今回の連載も「マッチョ」な感じはした。というか根本的にマッチョ? でもそれは世の中の言う「マッチョイズム」の「マッチョ」とはちがう。わたしが「マッチョ」な感じがする、というだけだ。