PINFU

毎日書く訓練

2023/12/17

 きのうのつづきをちょっと書くと、学校の先生みたいなもので、学校の先生は、小学校は担任がぜんぶ教えるけれど、中学になると各科目に先生が分かれる。理科の先生は理科を教えるし、国語は国語と分かれる。
 そのとき理科の先生は理科が好きだから理科の先生になったわけで、嫌いな人はならない。そもそも先生にならない。先生にはなるかも知れないけれど、不得意なものではならない。だから理科の先生は、理科の日が手な人の気持ちがわからない。
 きょうはなんか言い回しがまどろっこしい。遅い。文章が遅く感じる。遅く書いてみようか。うっとおしいと思う。
 それで、小説も、けっきょく小説が好きな人が書いているから、小説苦手な人の気持ちはわからない。ある人が、
「小説には決まり事がたくさんある」
 と言っていた。だから、小さいうちから小説を読んでおかないと大人になってから読もうと思っても読めない、って言っていたのかそれは忘れたんだけど、その約束事は大人になって読みはじめても初めてのことだから意味がわからない。でもなんとなくわかったような顔をして読んでいく。大人だから。でもつまらない。つまらないというかそもそもその行為自体も苦痛になってくる。だから次は本を読まなくなる。
 べつに読んだ方がいいと啓蒙しているわけでもないんだけど、うん、きょうはなんとなくめんどくさいね、きょうのしゃべっている「わたし」はめんどくさい、なにがめんどくさいのか、とにかくコーヒーが飲みたい、午前中に再々配達が来るのかどうかわからない。
 再配達は来た。
 その日のうちに書いたら日記になるのか、何年もあとに書いたら小説になるのか。前にも書いたけどどうしたら小説になるのか、日記と小説の違いもわからない。また今度のタイギゴにも書いてしまうかもしれないけれど、きょうはあるバンドのライブだった。友だちがチケットが余っているから一緒に行かない?と誘われた。聞いたことがないバンドだったが行ったらおもしろかった。やっぱり「生」だ、と思った。友だちは、
「どの曲も似てるよね」
 と言った。わたしも同じことを考えていた。
「しょうがないよね、多少は」
 わたしも小説はどれも似たような感じになってしまう。バンドの演奏を聴きながら、その似たような曲(小説)になってしまうのを回避するにはどうしたらいいんだろう、と考えていた。ライブの最中だ。一曲だけ完全にアタマがリラックスしてなにも考えていない、ガンガン音は鳴っているけれどそのまま寝ようと思えば寝られるぐらいリラックスしているときがあった。それは曲がそういう曲だったわけではなくてこっちの問題だ。
「おなじモチーフがくり返しでてくることに喜びがある」
 って言い方もできるかもしれないけれど、なんちゅうかね。でもすごくいいバンドだった。
 もうちょっと考えたいこともあった。
 曲はだいたい四分くらいで一曲になっている。これはこのバンドがそう、ってことではなくて、ほとんどのポップスはそうなっている。で構成も決まっていて、Aメロ、サビ、Bメロ、サビ、ブリッジ、大サビ、なんとなくこんな感じになっている。この枠からは抜けられないというか、この枠の中で曲を作っている。それってけっきょく、昔からあるものの再生産でしかないのか? いやそんなことはない、と思いたい。でも、わたしはきょうはじめて聴く曲ばっかりだったのにリズムにのって聞いていた。それって自分にとって聞いた覚えがある(パターンがわかっている)曲だからなんだけど、これ伝わってんのかな? もうすでにだれかが歌っているパターンと同じ曲をつくってもしょうがないんじゃないか?
 いやしょうがなくないのよ。きょうだってそのバンドは三五〇人のキャパシティーのホールでやってた。ある曲の中で「時代が動く音がする」って歌詞があったんだけど、そのときに、この、いまここに響いてる音はこの三五〇人しか聞いていないように思えるけれど、ぜったいどこかにも同じように響いていて、だれかの耳に届いていて、時代を動かすのはいつも芸術だ、行政や政治家や役人にはそれはできない、あいつらにできるのは公権力をちらつかせて売れている芸術にフリーライドしてくることだけで、俺はそんなのぜったい許さない、こういう音楽や文学や、とにかく芸術がいつも世界を作って支えていくんだ、って急に思って感動したりもしていた。もっと作ろう、と思った。
 さっき書いた疑問っていうのは疑問として俺が持っておけばいいもの、それを持ってこんご小説を書けばいいものなので、それは書きます。小説を書きます。