PINFU

毎日書く訓練

2023/12/04

 きのうの言葉にすこし付け加えると、わたしは自分が「成功者」になったときのことを考えるのが好きなんだけど、インタビューで、
「○○の秘訣は?」とか
「○○するにはどうしたらいいんでしょうか?」って聞かれたときに、自分の成功談を話してしまうな、と思った。でもそれは「成功者の成功談」になってしまうから、正直、そんなもの世の中に放出しても意味ないんだよね。
フリーランス・自営業の方で、二〇代が終わるまでにしておいてよかったこと、もしくはしておけばよかったと本気で思うものはなんですか?」
 という質問にたいして、山下澄人は、

「これ大人が我も我もと語るやつですね。わたしは違う語り方をしてみます。子どものとき、近くのラーメン屋の店主が「たかがラーメンでっけどな。ガキの頃からやって来ました。麺茹でるのに10年」といいました。修行して来た、修行が大事、ということですね。わたしは嫌で仕方がなかった。何を大袈裟な。ひと月ほど真剣にやりゃ出来るだろ。しかし驚いたことにそう誰かにいうと否定されました。「そんなことはない。そんな考え方は間違っている。世の中をなめちゃいけない。麺ひとつ茹でるのにも時間はかかる。プロとはそういうものだ」と。そのときのわたしは何一つ経験してなかったし、身につけてもいなかったので「ふうん」と聞き流しつつ、それでも一応耳に入れてはいましたが、自分が大人になり思うのは、あれはやっぱり嘘でした。やる、やれない、身につく、つかない、にそんな努力物語は何一つ関与して来ない。別の何かです。気がつけば、振り返ればある時間、ある体験、経験を経ては来ているけど当たり前に。何もせずただ草っ原に寝転んで30年でも積み重ねはある。ああいう雲が出て来た時は雨が降る、みたいな。しかしそれを寝転び人は「経験」とはいっても「修行」とはいわない。むしろそれこそわたしは「修行」だと思いますが。誰にだって起こる時間の積み重ねを「修行」というやつ、いわないやつ。ここに大きな違いがありそうな気がするけど、何かしておいてよかったこと、やるべきだったことは何、とそんなことを聞く人に伝わるだろうか。聞かずにやりゃいいのに。そう呼ぶからそう書くけど「人生」なんてそんなビクビクするものじゃないと思います。ざっとやっちゃう。だからダメなんだといわれても痛くも痒くもない。一万年後、生きていた証は子孫くらいしかない。気が楽じゃないですか。20代が終わるまでにしといた方がいいことは死なないことです。死んでもいいんだけどそれ以外にとくにいうことがない。」

 と答えている。
 武田ダニエルと安堂ホセの対談。安堂ホセが、
「昼の仕事をしながら作家とかしている友だちの方が多い。○○一本で生きていくとか、そっちの方がリアリティがない」
 という話をしていて、これもほんとそう、というか、なんだろう、正直これは自分一人の力で導き出した答えのような気がしていた。
 フリーター生活一年やって、そのあいだは自分の好きなこと毎日やっていたけれど、この生活は自分には向いていないな、と思った。○○一本の生活は向いてない。それができる人はやればいいんだけど自分には向いていない、一年も無理だったから死ぬまでやったら死んじゃう、だから昼の仕事探さなきゃってなった。
 自分の経験に基づいて導き出した答えのような気がしていたけれど、おもしろいのは、やっぱり同じ世代を生きている人は同じようなことを考えている。つながっていないようでつながっている。これが同時代研究のおもしろいところのような気がする。同じような文脈で物語(社会)を見ている。