PINFU

毎日書く訓練

2023/11/06
 きのうのつづきを書く。
 その懸念はなくなったけれど、そもそも、なんで留年していたら、就活失敗していたら、友だち家族と飲みに行けないのか。
 当時のわたしはかなり理論武装していた。とにかくそうしていないと自分が自分でいられなかった。「社会」を敵にして、それと戦っていないと、こう言われたらこう反論する、ってつねにシミュレーションしていて、横井庄一小野田寛郎じゃないけれど、一人で戦っているような気分になって、実際に一人で戦っていたし、もしその場でいろいろ就職や大学の話になったらその瞬間に戦闘モードになって、飲み会の席をぶち壊していたと思う。
 自分でも自分のことが手に負えなかったし、まわりも手に負えなかった。いま考えるとあのときはどうかしていたし、でもそれを「どうかしていた」と切り捨てたくはやっぱりなくて、あれが精一杯だったし、そのときの自分を否定したいとはまったく思わない。あのときの自分があったからいまの自分がある、なんて言うとすごくバカバカしいけれど、でもほんとにそうで、もしかしたら、戦中派が戦中を否定できなかったりするのはこういう気持ちがあるのかもしれない。
 無敵皇軍 鬼畜米英
 で戦っていた当時はいま考えると「どうかしていた」けれど、でもそのときの自分がいたからいまの自分がいる、って気持ちも捨てられない。あのときを完全に否定することはできない。

 うん。ちょっとこのへんことは難しい。わたしは戦争を経験していないし、「戦中派が戦中を否定できない」って仮定も、どこにそんなこと書いてあったんですか? って言われたら言えないし、適当に書いているだけだから。
 でもそこで、
「わたしは戦争を知らないので戦争について考えたり語ったりするのはちがうと思います」
 とはまったく思っていないというか、戦中派は戦中派なりに考えることはできるけれど、戦後派(あえてくいう分類をするけれど)のようには考えられないわけだし、その反対もしかり、戦後派は戦中派のように考えることはできないが戦後派として考えることはできる。それは大事なことだろうと思う。むしろ、戦争を知らない世代こそ、戦争について考えたり語ったりしないといけない。